押井守監督のアニメ映画『イノセンス』に登場した引用の引用元と意味を考えました。
本作には、これでもかというほど引用が多数登場します。
押井監督によれば「できるものなら100%引用でセリフを作りたかった」とのこと。個人的には100%引用じゃなくて良かったです(笑)
その数々の引用の意味から引用元までほとんどわからなかったので調べて、自分なりの解釈や、記事を見てくださった方々の意見も参考にまとめました。
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引用された言葉たち
ロクス・ソルス
事件の中心となる会社ロクス・ソルスの社名は、レーモン・ルーセルというフランス人小説家の著書「ロクス・ソルス」からです。
内容は、パリ郊外に住む発明家が、研究専用の別荘『ロクス・ソルス荘』に知人を招いて数々の発明品を披露していくというものです。
主人公は発明家の知人で招待された客のひとりです。
その発明品の数々は『死体蘇生装置』『人間の歯で作った芸術品』など天才的で奇妙なものばかりですが、発明家自身はそれが当前のように、電化製品の説明書を読み上げるかのように開発のきっかけや仕組みを淡々と説明していく…という、独特な話です。
面白そうだったので読みました。
構成が独特で気持ち悪い発明品もあるので好き嫌いがかなり分かれると思います。
発明家の男の鼻につくほどのナルシストぶりは著者の性格がにじみ出ているように感じました。
ロクスソルスは社名でしたが、何となくキムとキムがいたお屋敷の方が雰囲気は似ていたような気がします。
柿も青いうちは
柿も青いうちは鴉も突つき申さず候
意味:柿が実っていても、熟れないうちはカラスでさえ手を出さない
引用元:徳田秋声(小説家)
バトーとトグサが鑑識に話を聞きに行ったときの所轄の男の発言です。
「普段は所轄に見向きもしないくせに、自分たちに利益がある時だけのこのこやって来てうっとうしい」というような意味でしょうか。
所轄の男は自分たちの手柄が公安に横取りされるかもしれないことに対する不満から、この引用を口にしました。
自分の面が曲がっているのに
自分の面が曲がっているのに、鏡を責めて何になる
意味:自分の顔が歪んでいるのに、鏡を責めたってどうしようもない
引用元:小説『検察官』ニコライ・ゴーゴリ著
所轄の男の嫌味にいら立った理由を、トグサは「昔の自分を見ているみたいだった」と言い、それに対してバトーがつぶやいた引用です。
トグサが苛立つ理由はトグサ自身にあるので、所轄の男に怒っても仕方がないという意味です。
鏡は悟りの具ならず
鏡は悟りの具ならず 迷いの具なり
意味:鏡を使って自分を知ろうとしても、難しくなるばかりである
引用元:警句集『緑雨警語』斎藤緑雨 著
バトーの「自分の面が~」に対してトグサが返した引用です。
「鏡は自分を知るための道具にはならない」と言いたいのでしょうか。
とにかく、バトーの引用を聞いて考え直したようです。
ちなみにこの部分が含まれている文の全文は以下です。
されどまことに反省し得るもの、幾人ぞ。
人は鏡の前に、自ら恃み、自ら負ふことありとも、遂に反省することなかるべし。
鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり。
一たび見て悟らんも、二たび見、三たび見るに及びて、少しづヽ、少しづヽ、迷はされ行くなり。(引用:『緑雨警語』より)
人間に危害を加えない条件下
引用元:小説『われはロボット』アイザック・アシモフ著(作家・生化学者)
ハラウェイ検視官がガイノイドに関する説明をした際の引用です。
ガイノイドが人間に危害を加えないためにインプットされているルールのようなものです。
春の日や あの世この世と 馬車を駆り
春の日や あの世この世と 馬車を駆り
意味:温かい春の日には、あの世とこの世を行き来する美しい妖精たちの姿が見えるようだ
引用元:中村苑子(俳人)『水妖詞館』
ハラウェイ検視官のところから出た直後に、ハダリに関する新たな事件が起きたことを知り、バトーがつぶやいた引用です。
この句は幻想的で結構好きです。
バトーが言いたかった深い部分がもしあったとしたらよくわかりませんでしたが、短絡的に捉えると「事件のためにあちこち移動させられて忙しい」ということでしょうか。
ガイノイドたちは少女の姿でありながら、どこか妖艶で何となく妖精っぽさを感じます。
そんなガイノイドをたくさん目にした直後だったからこの句が出てきたのかもしれません。
シーザーを理解するために
シーザーを理解するためにシーザーである必要はない
引用元:マックス・ウェーバー(政治学者・社会学者・経済学者)
荒巻部長がトグサにバトーの様子を訊ねたとき、トグサは「俺はサイボーグや電脳ではないからわからない」と答えます。
これに対して荒巻が返した引用です。
意味は分かりやすいので省略します。
人はおおむね自分で思うほどには
人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない
肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ
引用元:小説『ジャン・クリストフ』ロマン=ロラン著
こちらもバトーの様子をトグサに訊ねたときの荒巻部長の引用です。
素子がいなくなってからバトーは元気がないので心配しています。
この後半部分は簡単なようで、落ち込んでいる時などには難しいですよね。
孤独に歩め 悪をなさず
意味:林の中の像のように、悪いことをせず、欲望は少なく、孤独に生きていけ
引用元:ブッダ
こちらも荒巻部長の引用です。
草薙素子も同じ引用を使うので、この言葉が監督の言いたいことに近いのかもしれません。
また、押井監督の著書『やっぱり友達はいらない。 』にも通じるものがあります。
この引用の全文は以下です。
しかし、愚か者を道連れにしてはならない。
もし、良い伴侶が得られないのであれば
孤独に歩め 悪をなさず 求めるところは少なく 林の中の象のように
バトーにとって『良い伴侶』というのは素子のことです。
しかし、素子は前作で『象』になることを選んだのでバトーとは共に歩めません。
素子は「私は孤独に生きていくことを選んだ」という意味合いでこの引用を使っています。
ここで登場する『孤独』はネガティブなイメージではなく、どちらかと言えば『孤高』や『一匹狼』のような崇高な印象を受けます。
実際ブッダは孤独を肯定する発言が名言集などに多く残されています。
個体が作り上げたものもまた
引用元:科学書『延長された表現型 自然淘汰の単位としての遺伝子』リチャード・ドーキンス著(生物学者)
(引用:http://ccoe.blog60.fc2.com)
エトロフ経済特区に向かうヘリの中で、街を眺めながらバトーが出した引用です。
対してトグサが「それってビーバーのダムやクモの巣の話だろ?」と聞いています。
ビーバーのダムやクモの巣は誰に教わることもなく本能で作り上げるので、それは遺伝子が記憶しているから作ることができるものであり、作り上げたダムや蜘蛛の巣そのものにも遺伝子が宿っているという意味です。
バトーは人間が作った『都市』にもまた、人間の遺伝子が宿っていると言いたいのだと思います。
その思念の数はいかに多きかな
その思念の数はいかに多きかな 我これを数えんとすれども その数は砂よりも多し
引用元:旧約聖書 詩編139節
エトロフ経済特区を見ながらバトーと会話しているときにトグサが出した引用です。
人間の思いや念の数は膨大で数えられないという意味です。
彼ら秋の葉のごとく
意味:彼らは秋に木から落ちる葉のように群れになって落ちていき、理性を失いぐちゃぐちゃになった彼らはどなり、わめいていた。
引用元:小説『失楽園』ジョン・ミルトン著
神によって地獄に落とされたサタンとその仲間達が、恨み言を叫びながら地獄に落ちていく様子を記したものです。
トグサは『神=荒巻、サタン=トグサ&バトー、地獄=ロクス・ソルス社、エトロフ経済特区』に例えてこの引用を出しました。
敵の本拠地に乗り込むのがイヤで、荒巻が憎らしくなったのでしょう。
忘れねばこそ思い出さず候
意味:忘れることもないが、思い出すこともない
引用元:高尾太夫(遊女)
エトロフ経済特区に乗り込んだバトーとトグサは、バトーがレンジャー時代に知り合った武器商人と会います。
この武器商人からキムの居場所を聞き出そうとしている時のバトーの発言です。
仁義に二種あり
信義に二種あり 秘密を守ると 正直を守ると也 両立すべき事にあらず
意味:信義には二種類ある。秘密を守ることと正直を貫くこと。これら2つを両立すると信義ではなくなる。
引用元:警句集『緑雨警語』斉藤緑雨 著
1つ上と同様、バトーが武器商人の男に出した引用です。
「秘密を貫くか正直に喋るかどっちだ」男をまくしたてています。
秘密なきは誠なし
意味:秘密がないことは誠実さがないことと同じだ。
引用元:警句集『緑雨警語』斉藤緑雨 著
バトーの引用を受けて武器商人が返した引用です。
1つ上の「信義に二種あり~」とこちらは続きになっている文章のようです。
さらに続きもあるので記載しておきます。
意味:正直者は誠実さに欠ける。隠し事が無くあっさりしていると言われる人は、少数のために大勢を騙している人間である。
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感想などお気軽に(^^)
はじめまして。
本日、たった今、はじめてイノセンスを観てきました。
あまりの引用の多さに困惑したあと、絶対にまとめている人がいる…!と探してここにたどり着きました。感謝に耐えません。理解できていなかった内容に関してほぼ知ることができました。
解釈の部分も大変興味深く拝見させていただきました。
この作品に低評価を付ける人は、普段ありふれているような物事をもう一回改めて考える際に、SFだったり哲学だったりという尺度を組み入れて考えることを楽しめないんだろうな、と勝手に納得したりしました。オタクはこういうの好き、っていうど真ん中の一つかとも思いますが…笑
ただの生身の人間同士の争いならばそこに動機があれば良いのですが、このお話に関してはそれだけじゃないのが面白いところですよね。人間と人形と生命の捉え方、加えて、書いていらっしゃったようにバトーの想いと葛藤が混ぜ合わさってこそ、贅沢な間のとり方が活き、考えさせられる内容になっているのだと感じました。
映像に関しても目の覚めるような綺麗さで、攻殻機動隊のシリーズを見回しても傑作の部類だと思います。
重ねて、素晴らしいブログ記事をありがとうございました。
解説記事ありがとうございました。
最近この映画を見て、わからなかったところや
引用元などが補完されて大変助かりました。
最後の素子の台詞「孤独に歩め~……」には前文があると知り、
バトーにそう語り、バトーが終の語を答えたあとの台詞は
わたしはいつもそばに→『けれどあなたには私(ともに歩むよき伴侶)が居る』
という反語的意味で使っているんじゃないかなと思えました。
それぞれの住む世界は違うけど、孤独ではないとそう伝えたかったのかなと
これはバトーさんの価値観での愛の成就とは違うかも知れないけれど、つまり両思いなのでは?と思えたり、いややっぱり二人は戦友愛なのか…?と思えたり想像の幅が広がりました。
匿名さん
こんにちは!補完になったとのことで嬉しいです!!
最後にかけた「あなたのそばにいるわ」は、素子は彼女なりにバトーに愛情があると伝えているのは確かだと思います。(恋愛感情かどうかは別として)
漠然とは両想いだけれど価値観が違い、素子の価値観をバトーは理解して孤独感が和らいだ と個人的には解釈してます。
あれこれ考えていたら長くなりましたすみません。
コメント励みになりました。ありがとうございます(^^)
何度観てもよく分からないってのは、押井監督は視聴者を置いてけぼりですよね。ゲーム攻略本が無いとクリア出来ないソフトみたいな。
展開の節目節目に荒巻らと
“今ここまで進展してて、次は、あそこがあやしい”みたいな展開の経過の描写があれば、
まだ流れが分かるし、アクション展開にも高揚感があったんじゃないかなぁ。
そこまで丁寧な”解説”があると、稚拙な作品になりかねないかもしれないけど、
神山版の攻殻はそういう描写は丁度良かったですね。繰り返し観れば判るようになってた。
イノセンスを何回か見てもよくわからない部分が多々あり、理解を深めたいと調べていてここのサイトに辿り着きました。
細かく丁寧に解説されていてとても理解が深まりました。
ありがとうございました!
teteさん
理解が深まったと言って頂けて嬉しいです!
私自身も文章にまとめたからこそ理解を深められた部分が多いです。
またちょこちょこ覗きに来て頂けたら嬉しいです(^^)
嬉しいコメントをありがとうございました*
「俺もお前と同じつまらねぇ人間だが、履いている靴が違う」
の会話ですが、刑務所で過ごせ、というような話ではないと思うので、私見を述べさせてもらいます。
「自分のゴーストが信じられねぇような野郎には、狂気だの精神分裂だのって結構なものもありはしねぇ」
(発狂して楽になれると思うな)
「お前の残り少ない肉体は破滅することなく、分相応な死ってやつが迎えにくるまで物理的に機能するだろうよ」
(また、お前の肉体も簡単には壊れない。だから、つまらないお前にふさわしい、つまらない死がやって来るのを、狂うことなく見つめ続けることになるだろうよ)
……と私は捉えました。自身が提唱した不完全な死に囚われているのを、皮肉っているのではないでしょうか(ここは少し蛇足ですが)
匿名さん
コメントありがとうございます!
そこの解釈について、バトーのセリフから『刑務所行きになり何十年も収監され、時間の流れとともに老いていき死を待つばかりのキム』を想像したのと、書き方が大ざっぱ過ぎたせいで言いたいことが全然書けてないな、とは思っていたものの放置していた(考えるのを後回しにしていた)箇所でして、この度ご意見頂けてようやく修正する気になりました。
ここは私も『不完全に死ぬ』ことになるキムへの皮肉と感じていたので蛇足仲間です!
匿名さんの解釈も拝見出来て嬉しいです(^^)
キムとバトーのやりとりの「人間の認識能力の〜」というところで、こうかな〜?と思うところがあったので書かせていただきます。あくまで個人的な考察です。
人間の認識能力は不完全、これは「理解なんてものは、おおむね願望に基づくもの」(荒巻)ということに起因する。人間は自己意識が強いがゆえに、物事を正しくあるがままに捉えることができない。人が認識する現実は個々の主観に歪められた現実でしかない。それゆえに人の生きる現実は常に、自己意識の歪んだレンズを通してみる不完全な現実である。不完全な現実でしか生きられない私たちは、その終焉たる死も不完全である。なぜなら完全な死は完全な生によって可能となり、完全な生は完全な現実(完全な認識能力)によってもたらされるからだ。ゆえに、現実を歪めることのない(意識を持たない)人形か、完全な認識を可能とする全知の神、この二者にしか完全な死は実現しえない。
しかし、現実を歪めるほどの強い自己意識(主観や理性?)をもたない動物も、人形や神に匹敵する完全な死を迎えることができる存在といえるだろう。
禁断の果実を食べたことで無垢を失った人間が、認識(理性?)を捨て無垢に立ち帰ることは途方もなく困難だ。それは全知の神になることよりも難しい。
長くなってしまいました。解釈の一助になれば幸いです。
楽しく何度も読ませていただいています。たくさんの引用と解説ありがとうございます。
まにょ さん
とてもわかりやすい解説をありがとうございます!!
読んでいて『なるほど、そういうことか!!』と理解・感動した上にグダグダだった箇所を修正することが出来ました(;∀;)
該当箇所に思い切りまにょさんの名前を書いておりますが、大丈夫ですかね?汗
問題等あれば訂正させて頂きますので、またお知らせください!
また、何度もお読みくださっているとのことで嬉しい限りです。。
温かいお言葉、励みになります(^^)
ありがとうございます!わざわざ修正なさった上に名前まで載せていただいて恐縮です…笑笑
よく分からないです〜と書いてあったからこそ真剣に考察することができたので、すごく楽しかったです!こちらこそありがとうございます(*^^*)
素子が最後にバトーにかけた言葉
孤独に歩む ではなくて 孤独に歩めのようです。
沢山の引用をまとめて下さってありがとうございます。
熟読しました。
匿名さん
管理人です。教えてくださりありがとうございます!
また、熟読くださったということで嬉しい限りです。
もちろん読んで欲しくて記事を書いているんですが、いざご報告いただくと恥ずかしい気持ちになりました(うまくまとめられている自信がないので・・・)
修正がてら全体を見直してちょこちょこ修正したので、またご覧になって頂ければ嬉しいです(^^)