押井守「イノセンス」の名言・難しい名台詞まとめ※引用除く | 映画の解説考察ブログ

押井守「イノセンス」の名言・難しい名台詞まとめ※引用除く

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イノセンス SF

押井守監督のアニメ映画『イノセンス』に登場した難解だった発言の数々の意味を考えました。

イノセンス

制作年:2004年
本編時間:100分
制作国:日本
監督・脚本:押井守
原作漫画:『攻殻機動隊』士郎正宗著

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引用以外の名言や小難しかった台詞まとめ

名言だと感じた言葉や、聞いていたら頭がこんがらがりそうだったセリフを文字にしました。
はじめに押井監督のイノセンスに関するインタビューでの発言を一部引用します。

それは全部わからなくたっていいんです。
その中で引っかかる言葉が一つか二つあれば。
全部分からせるのは、映画の構造上不可能だから。
時間はどんどん流れていくので、理解するスピードと映画のスピードを合わせようとすると、ある種の実りのない映画に必ず陥っちゃう。
今回は、バトーだったり荒巻だったり検視官のおばさんだったりに、いろいろなことをしゃべらせて、それぞれの相反する意見を出している。
これは、それなりに効果があって、引っかかってくれるんじゃないかと思ってる。 (引用:『アニメージュ』2004年3月号より)

観た後であれこれ考えて欲しい押井監督にとっては、理解するスピードと映画のスピードに時間差をつけるために、あえて難しい表現を多用したということなのでしょう。
引っかかりまくった私は見事策略にはまった模様です(笑)
大切なのは、これら引用や難解発言の意味を知ってどう感じたかだと思います。

 

荒巻:理解なんてものは おおむね願望に基づくものだ

荒巻:理解なんてものは おおむね願望に基づくものだ

バトーが「(事件の概要を)理解した」と言ったことに対して荒巻部長が返した言葉です。(会話の流れ的に屁理屈や説教っぽくも聞こえましたが)
『人間は信じたい事しか信じない』というような言葉があるように(ソースは忘れました、すみません)、理解もまた個人の願望に基づくもので、理解出来るか出来ないかは、理解したいかしたくないかで決まるということだと思います。
理解したかどうかは問題じゃない、とにかく働けという意味でもあるかもしれません。

 

ハラウェイ:人間とロボットは違う

イノセンス

©2004 士郎正宗/講談社・IG, ITNDDTD

ハラウェイ検視官:
人間とロボットは違う
でもその種の信仰は「白が黒でない」という意味において 「人間が機械ではない」というレベルの認識に過ぎない
工業ロボットはともかく 少なくとも愛玩用のアンドロイドやガイノイドは功利主義や実用主義とは無縁の存在だわ
なぜ彼らは人の形 それも人体の理想形を模して造られる必要があったのか
人間はなぜこうまでして自分の似姿を作りたがるのかしらね
(中略)
『子ども』は常に『人間』という規範から外れてきた
つまり確立した自我を持ち 自らの意思に従って行動するものを『人間』と呼ぶならばね
では『人間』の前段階としてカオスの中に生きる『子ども』とは何者なのか
明らかに中身は人間とは異なるが 人間の形はしている
女の子が子育てごっこに使う人形は 実際の赤ん坊の代理や練習台ではない
女の子は決して育児の練習をしているのではなく むしろ人形遊びと実際の育児は似たようなものなのかもしれない

トグサ:一体何の話をしてるんです?
ハラウェイ:つまり子育ては 人造人間を作るという古来の夢を一番手っ取り早く実現する方法だった そういうことにならないかと言っているのよ
トグサ:子どもは人形じゃない!

ハラウェイ検視官は、人形の自壊を「自殺」と表現したり「人形は使い捨てされるのがイヤで怒っている」と意見したり「子どもは人間ではなく人形に近い」というような意味の発言をしていることから、人形(アンドロイドやガイノイド)と人間の区別があいまいで、どちらかと言えば人形の肩を持つタイプの研究者です。

また、ハラウェイ検視官がいるラボはマシンなどの品質保持のためか、温度が非常に低く保たれています。
トグサは寒がってコートのチャックを首元まで上げていますが、バトーとハラウェイ検視官は寒がる様子を一切見せません。
これは、ハラウェイ検視官もバトーと同様に体が義体だからです。

ハラウェイ検視官は、バトーの『人間と人形の捉え方』を顕著に表しているキャラクターと言えるでしょう。
トグサの「子どもは人形じゃない」という意見に対して、バトーは「デカルトは、幼くして死んだ娘の名前を人形に付けて生涯溺愛したらしい」と、ハラウェイ検視官を支持する発言をしています。

ちなみに『アニメージュ』のインタビュー記事で押井監督が、ハラウェイ検視官は取材でイタリアに行った時に出会った大学の先生がモデルで、彼女があまりにかっこいいおばさんだったので写真を撮らせてもらい、見た目もほとんどそのまま検視官として登場させたと明かしていました。

話題が飛びますが、ハラウェイ検視官はラボで煙草を吸いながら話していますが、温度管理も徹底しなければいけないこの部屋でタバコ吸っちゃって大丈夫なんでしょうか?
ヤニ汚れとか厄介そうだけど…と単純に疑問に思ってしまいましたw
恐らく、この喫煙行為がハラウェイ検視官が人間であることを示すものだったのだろうとは思いますが…
モデルにしたイタリアの先生がもしかしたら喫煙者だったのかもしれませんね。




バトー:生命の本質が遺伝子を介して伝番する

バトー:生命の本質が遺伝子を介して伝播する情報だとすると 社会や文化もまた膨大な記憶システムに他ならないし 都市は巨大な外部記憶装置ってわけだ

バトーがエトロフ経済特区の街並みを見た時の言葉です。
外部記憶って何となく難しい言葉ですが、簡単に言うと授業の内容をノートにとったり、何かを忘れないようにメモしたり、つまり頭で記憶するだけでなく何かに記録を残しておくことです。
ノートやメモがこの場合の外部記憶装置です。
人間が作った社会や文化、建造物などのあらゆるものが、当時の人々の技術や時代や価値観が反映されている『外部記憶装置』で、その社会や文化、建造物の中に人間の遺伝子が作り上げた仕組みや情報が残されてる、ということですかね。

 

キム:人間はその姿や動きの優美さに

キム:人間はその姿や動きの優美さに いや 存在においても人形にかなわない
人間の認識能力の不完全さは その現実の不完全さをもたらし そしてその死の完全さは 意識を持たないか 無限の意識を備えるか
つまり 人形あるいは神においてしか実現しない
いや 人形や神に匹敵する存在がもうひとつある
バトー:動物か
キム:シェリーのヒバリは我々のように自己意識の強い生物が決して感じることのできない深い無意識の喜びに満ちている
認識の木の実をむさぼった者の末裔にとっては 神になるより困難な話だ

キムとバトーの会話の一部です。
キムは人形を神と並べて崇拝し、動物も神や人形と同等の存在だと示し、一方で人間は人形、動物にも劣る罪深い存在だと語っています。

人間の認識能力の不完全さは (中略) 人形あるいは神においてしか実現しない」の部分について
『人間の認識能力の不完全さは現実の不完全さをもたらす』は、人間が認識している『現実』は個々の主観(フィルター)を通しているものであり、人間は自己意識が強いゆえに、物事を正しくあるがままに捉えることができない、『自己意識』という歪んだレンズを通して見ている『不完全な現実』ということです。
これは荒巻の「理解なんてものは、おおむね願望に基づくものだ」に起因します。

そして『不完全な現実』を生きている人間にとっては、その死も不完全になります。
なぜなら『完全な死』は『完全な生』によって可能となり、完全な生とはキムが言う『意識を持たないか、無限の意識を備えるか』のどちらかです。

つまり、『完全な死』を得られるのは、意識(認識能力)を持たない人形か、無限の意識(完全な認識能力)を持つ神様だけ、ということになり、キムの持論では認識能力が不完全な人間は完全な死を得られないことになります。

※こちらの解釈はコメントくださった まにょ様の解説を参考にしておりますので、参照元コメントも是非ご一読ください!
ありがとうございました(;▽;) 
※まにょ様のコメントはこっちの記事の下部にあります。

 

バトー:生身の人形は死を所与のものとしてこれを生きる

バトー:生身の人形は死を所与のものとしてこれを生きる

引用だらけなのでこれも引用かと思いましたが、これはバトーオリジナルの台詞のようです。

キムが『魂を持たない生身』の美しさを伝えるために、死を恐れる人間の醜さを説明します。
そして、バトーが「言いたいことはわかった」という意味で上のセリフを言いました。
生身の人形は意識を持たない=生物に置き換えれば『死』とも言える。
なので、アンドロイドはある意味 死んだ状態で生まれ、死ぬまで死同然の状態で生きている、という意味なのかなと思います。

 

キム:外見上は生きているように見えるものが

キム:外見上は生きているように見えるものが 本当に生きているのかどうかという疑惑
その逆に 生命のない事物がひょっとして生きているのではないかという疑惑
人形の不気味さはどこから来るのかといえば それは 人形が人間の雛形であり つまり 人間自身に他ならないからだ
人間が簡単な仕掛けと物質に還元されてしまうのではないかという恐怖
つまり 人間という現象は本来 虚無に属しているのではないかという恐怖
生命という現象を解き明かそうとした科学も この恐怖の情勢に一役買うことになるな
”自然が計算可能だ”と言う信念は ”人間もまた単純な機械部品に還元される”という結論を導き出す
バトー:人体は自らゼンマイを巻く機械であり、永久運動の生きた見本である
キム:18世紀の人間機械論は 電脳化と義体化の技術によって再び蘇った
コンピューターによって記憶の外部化を可能にしたときから 人間は生物としての機能の上限を押し広げるために 積極的に自らを機械化し続けた
それはダーウィン流の自然淘汰を乗り越え 自らの力で進化論的闘争を勝ち抜こうとする意思の表れであり それ自身を生み出した自然を超えようとする意思でもあり 完全なハードウェアを装備した生命という幻想こそが この悪夢の源泉なのさ
バトー:神は永遠に幾何学する

キムの屋敷の無限ループ2回目の会話です。

『完全なハードウェアを装備した生命という幻想こそが悪夢の源泉』は、バトーもトグサもキムも生物としての機能を押し広げるために電脳化しているが、電脳だからこそハッキングにより無限ループの悪夢を見せられているのだと皮肉を言っています。
確かに生身の脳だったらこの攻撃出来ないですもんね。

要約するとトグサとバトーが疑似体験の迷路に入っているのを暗に伝え、からかっていると思われます。




バトー:幸運が三度姿を現すように

バトー:幸運が三度姿を現すように 不運もまた三度兆候を示す
見たくないから見ない 気がついても言わない 言ってもきかない
そして破局を迎える

無限ループにはまっていたトグサをバトーが助けた際にかけた言葉です。

幸も不幸も、その出来事が起きる前に3度前触れがある。
不運の場合はその前触れを無視した結果、最悪の結果になる
というような意味です。

西洋には「三つの兆候によって死を迎える」というお話があります。
死神と契約した男がいました。
死神は「お前をあの世へ連れて行く前に、必ず三つの警告を示す。」と言って消えました。

それから男は年を取り、ある日死神が男をあの世に連れに現れます。
男は死神が突然現れたので「三つの警告がないじゃないか 約束が違う」と怒りますが、死神は

1 男の足腰が弱った
2 耳が遠くなった
3 目がかすんで見えにくくなった

これら3つが警告だったことを伝え、男をあの世へ連れていきます。

日本でもなじみ深い『見ざる聞かざる言わざる』も絡めてありますね。
しかしこの場合は、見ざる聞かざる言わざるの結果、破局を迎える(まんまと騙される)という意味です。

 

バトー:騙してやろうと待ち構えている奴ほど騙しやすいもんさ

キムの疑似体験の迷路を突破したときの言葉です。

 

バトー:そう囁くのさ 俺のゴーストが

イノセンス

キムを捕まえたバトー ©2004 士郎正宗/講談社・IG, ITNDDTD

ゴーストを信じないキムに対しての言葉です。
素子の口癖をバトーが真似しています。

 

キム:人間もまた生命という夢を

キム:人間もまた生命という夢を織り成す素材に過ぎない
夢も知覚も いや ゴーストさえも 均一なマトリクスに生じた裂け目や歪みなのだとしたら…
バトー:俺もお前と同じくだらねえ人間だが 俺とお前じゃ履いてる靴が違う
ゴーストが信じられねぇようなヤローには 狂気だの精神分裂だのと結構なもんもありゃしねぇ
お前の残り少ない肉体は破滅することもなく ”分相応な死”ってやつが迎えに来るまで 物理的に機能するだろうよ

キムがバトーに捕まる直前の会話です。
キムはまだ隙あらばバトーを疑似体験の迷路に引きずり込もうと悪あがきをしていますが、バトーの言葉で抵抗を諦めました。
「靴が違う」の『靴』とはゴーストを信じるか信じないか、バトーは信じていて、キムは信じていないということ
「ゴーストが信じられねぇ(中略)ありゃしねぇ」は『ゴーストが信じられない奴はゴーストの異常(心の病気など)も認知出来ない可哀想な奴らだ』
「お前の残り少ない肉体は(中略)だろうよ」は、人形に憧れて見た目は人形そのものになっていても、キムはやっぱり人間であり、キムもまた『不完全な死』しか選択肢がないことへの皮肉を浴びせていたのではないかと受け取りました。

 

バトー:思い出をその記憶と分かつものは何も無い

バトー:思い出をその記憶と分かつものは何もない
そしてそれがどちらであれ それが理解されるのは常に後になってからのことでしかない

キムの屋敷から出たトグサが「本当に疑似体験から抜け出せたのかどうかわからない」と不安を見せた際にバトーが返した言葉です。
思い出と記憶はほぼ同義語ですが、もしも記憶と事実が違っていたとしても、それは後になってからでないとわからない、という意味でしょうか。
つまり、まだ疑似体験の中なのかどうかは今考えても仕方ない(後にならないとわからない)とトグサを慰めているのだと思います。

 

バトー:昔の人はいいこと言ったぜ

バトー:昔の人はいいこと言ったぜ。
『理非無きときは鼓を鳴らし攻めて可なり』ってな。
談判破裂して暴力の出る幕だ!

引用文の所にも載せましたが、バトーらしくて好きだったので名言としてこちらには全文を載せます。
『談判破裂~』は引用ではなくオリジナルのようです。
談判破裂は交渉決裂とほぼ同じ意味だと思って良いと思います。

 

バトー:ひとつ聞かせてくれ

バトー:ひとつ聞かせてくれ 今の自分を幸福だと感じるか?
素子:懐かしい価値観ね。
少なくとも今の私に葛藤は存在しないわ。
孤独に歩め 悪を成さず 求めるところは少なく…
バトー:林の中の象のように…
素子:バトー、忘れないで。
あなたがネットにアクセスするとき、私は必ずあなたのそばにいるわ。

事件が解決し、素子がネットの世界に戻る直前のバトーと素子の会話です。

バトーは9課から去った素子の素直な心境が知りたかったのでが、今の素子は体を手放して意識だけの存在になっています。
幸か不幸かなどの、人間特有の価値観や悩み、葛藤からとっくに解放されているのでしょう。

万が一、素子が「不幸」と答えていれば、バトーは素子に戻って来いと言っていたかもしれませんが、『孤独に歩め』という素子の答えを聞いて、もうお互いに住む世界が違うのだと悟ったのでしょう。
バトーの「林の中の象のように」は、「もう一緒にいられないんだな」と寂しさを訴えているのでしょう。

最後の素子の「あなたのそばにいるわ」は、お互いに『林の中の象』かもしれないけれど、彼女なりにバトーに愛情を持っている(彼女なりの愛の形)と伝えたんだろうと解釈しています。

素子とバトーのラブストーリーについて押井監督は「素子はめちゃくちゃエゴイストだけど、バトーに優しい言葉もかけちゃう」的なとコメントをされていました。
『素子が愛しているのはあくまでも自分だけだが、バトーに元気が無い原因は彼女もよくわかっているから友人として気にしている』ことになるのかな~と思いました。

以上です。長い記事を読んで頂きありがとうございました。
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