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コーエンが『我々』と呼んでいた理由
コーエンはずっと自分のことを『我々』と呼び、変人がられていました。
なぜコーエンの一人称が『我々』だったのか、答えは意外と単純で、孤独に悩んでいたコーエンが少しでも孤独感を和らげるために『我々』と呼んでいただけです。
ギリアム監督が『コーエンは現代の若者を象徴している』とも発言していたので、ひとりを嫌がっていつも誰かとつるんだり、1人でいる時もSNSで誰かしらと繋がりたがる人々を皮肉的に表現していたのかもしれません。
ラスト近くでようやく一人称が『私』になるのは、ボブに心を許せたことで孤独感が和らいだからではないでしょうか。
ベインズリーを振った理由
なぜコーエンはベインズリーを振ってしまったのでしょうか?
恋愛もコーエンの求める『生きる意味・価値』ではなかったからというのも理由のひとつだと思われますが、あんなに好きだったのに振ってしまったのがちょっと理解に苦しみました。(さすが変わり者)
恋愛感情は繊細なので、コーエンとベインズリーの気持ちのタイミングが合わなったのもあり、コーエンはベインズリーに告白される前に何度か拒絶されていたので、コーエンの苦手な『孤独感』が増幅して「こんな気持ちになる位なら恋愛は要らない」と思ったのも一因ではないかと思っています。
コーエンの恋愛観は、近年増えつつある生涯独身の人々を象徴していたようにも見えました。
ラスト考察
ラスト、コーエンがマンコム社にワープした辺りから話が散らかり始めて意味がわからなくなりました。
さっきまで自宅に居たのに次の瞬間にはパジャマ姿でマンコム社に居て、ブラックホールが突然現れ、ブラックホールに入るとVRビーチに出てくる怒涛の展開でしたね(笑)
こういう風に支離滅裂になる時は大体夢落ちか、幻覚・妄想か、その人が死んでいて死後の世界が描かれていたかのどれかなんですが、コーエンの場合は『死んだ』というのが一番濃厚じゃないかと考えています。
コーエンはボブが作った『魂を探すスーツ』を着て感電した時に死んでいて、それ以降はコーエンの死後の世界だったのではということです。
恐らくコーエンは、あり得ないことが次々に起きたことから徐々に現実ではないと気付き、ブラックホールを見た辺りから自分自身の死を悟ったのではないでしょうか。
ブラックホールはコーエンが初めてVR体験した時に『コーエンの心の闇を象徴する物体』として登場していたので、マンコム社に現れたブラックホールも同じものと考えられます。
『ニューラル・ネット・マンクライヴ』から出てきた大量のホログラムの人物写真は、これまでコーエンが関わってきた全ての人間だったのかもしれません。
その人々(の写真)がブラックホールに飲み込まれるということは、コーエンが最も恐れると同時に最も求めていたのは「他人との関り(繋がり)」だったのかもしれません。
思い切ってコーエンがブラックホールに飛び込んだのは、自分自身の心の闇を恐れずに受け入れることにしたという意味があったのではないでしょうか。
VRビーチに出た時、そこにはベインズリーの姿はないけれど、彼女との思い出の品だけはそこに残されています。
これにはコーエンの中でベインズリーが既に美しい思い出に変わっていることが表現されていたのかなと思っています。
ベインズリーをフッたのは、コーエンが孤独を選んだことを意味するので、コーエンが孤独を受け入れる手助けにもなったのかもしれません。
沈まない夕日を自らの手で沈ませて満足気にただずむ姿は、孤独も死も受け入れて精神が解放された様子だったのではないでしょうか。
『人間生まれる時と死ぬときはひとり』みたいなことわざありますよね。あんな感じを噛み締めているのかな〜と思いました(曖昧ですみません)
そしてベインズリーがコーエンを呼ぶ声(恐らくコーエンの脳内再生)が聞こえ、切なく物語が終わります。
エンドロールの最後にキリストの像の頭の部分が監視カメラになっている映像が再び映ります。
これはマンコム社の体制からしても監視社会を表していたんだと思いますが、マネージメントのキャラクターからして「監視(管理)する側は神にでもなったつもりでいる」というような風刺表現なのか、『神は全て見ている』という意味でもあるのか、また違う意味なのか、観た方それぞれの解釈がありそうです。
以上です。読んで頂きありがとうございました。
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