映画「インビクタス/負けざる者たち」の主人公で南アフリカの8代目大統領ネルソン・マンデラの半生を紹介しています!
制作年:2009年
本編時間:132分
制作国:アメリカ、南アフリカ
監督:クリント・イーストウッド
脚本:アンソニー・ペッカム
主題歌:『INVICTUS 9,000 Days』Overtone and Yollandi Nortjie
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キャストとあらすじ紹介
キャスト

(引用:https://www.cinemacafe.net)
ネルソン・マンデラ…モーガン・フリーマン
南アフリカの第8代目大統領で同国初の黒人大統領。
大統領就任選挙の直前まで刑務所に収監されていた。
生涯を通じて人種差別文化の撲滅に尽力した。
多くの黒人からの支持を得ているが、妻と娘からは距離を置かれている。

(C)2009 WARNER BROS.ENTERTAINMENT INC.
フランソワ・ピナール…マット・デイモン
南アフリカ出身のプロラグビー選手。
南アフリカのチーム『スプリングボクス』のキャプテンとしてワールドカップに出場する。
ジェイソン・シャバララ(黒人ボディーガード)…トニー・キゴロギ
リンガ・ムーンサミ(黒人ボディガード)…パトリック・モフォケン
ヘンドリック・ボーイェンズ(白人の公安)…マット・スターン
エティエンヌ・フェイダー(白人の公安)…ジュリアン・ルイス・ジョーンズ
ネリーン(フランソワの妻)…マルグリット・ウィートレー
メアリー(マンデラの自宅の黒人家政婦)…レレティ・クマロ
Mr.ピナール(フランソワの父)…パトリック・リスター
Mrs.ピナール(フランソワの母)…ペニー・ダウニー
ユーニス(フランソワの家の黒人家政婦)…Sibongile Nojila
ジンジ(マンデラの娘)…ボニー・ヘナ
スポーツ大臣…shakes myeko
スプリングボクスコーチ…ルイス・ミナー
スポーツ担当大臣…ダニー・キーオ
ラグビー評論家…ロビン・スミス
飛行機のキャプテン…デイビット・デュカス
飛行機の副キャプテン…グラント・スワンビー
高校ラグビーのコーチ…ヘニー・ボスマン
ジェシー(大統領邸受付)…Refiloe Mpakanyane
スプリングボクスマネージャー…アルバート・マリッツ
ミセス・ブリッツ(大統領邸職員)…リダ・ボサ
看守…バート・フーシェ
テレビアナウンサー…アンドレ・ジェイコブス
ジョエル・ストランスキー(スプリングボクス選手)…スコット・イーストウッド
チェスター(黒人選手)…マクニール・ヘンドリックス ほか
あらすじ紹介
1994年4月。マディバ(モーガン・フリーマン)は南アフリカ共和国初の黒人大統領に就任します。
マディバは『白人至上主義』が根強く残る南アフリカから、人種差別を失くすための第一歩としてラグビーに目をつけます。
翌年の1995年に開催されるラグビーワールドカップの開催地が南アフリカに決まっていたからです。
ラグビーは当時『白人と富裕層がするスポーツ』『アパルトヘイトの象徴』というイメージが強いスポーツでした。
南アフリカの代表ラグビーチーム『スプリングボクス(通称ボクス)』の選手は全員白人だったので、マディバはボクスに黒人選手を投入し、
チームキャプテンのフランソワ・ピナールに「ワールドカップで優勝して欲しい」とお願いしました。
解説、考察や感想など
主人公のネルソン・マンデラ氏について
(ネルソン・マンデラ氏 引用:http://south-africa.jp)
本作は、主人公の南アフリカ共和国 第8代大統領ネルソン・マンデラについての基本的な知識がなければ冒頭から置いてけぼりにされてしまいます。
もしラグビーチームの成長過程だけを楽しみたい方であれば知らなくても大丈夫ですが、
マンデラ氏がどのような人物かを知った上で見ると より楽しめるので、
マンデラ氏についてザックリですが経歴などをまとめます。
ネルソン・マンデラの半生
マンデラは1918年に南アフリカ トランスカイのとある村で生まれ育ちました。
大きくなると、秀才だったマンデラは同国の大学に進学します。
大学時代は※反アパルトヘイト運動に参加して退学、
その後、南アフリカにある2つの大学に入学・卒業しました。
大学卒業後の1944年、26歳の時に※アフリカ民族会議(ANC)に入党します。
※アパルトヘイトは、当時の南アフリカで推進されていた人種隔離政策のことです。
南アフリカにはオーストラリア系の白人が多く住んでいて、白人とそれ以外の人種(主に黒人)を差別する政策がありました。
具体的には、労働面では白人は良い待遇で働ける一方、黒人は低賃金などの悪条件でしか雇わなかったり、
教育面では白人と黒人の共学を禁止にしたり、白人と白人以外の人種の恋愛を禁止したりなどがありました。
※アフリカ民族会議(ACN)は、1921年に発足した南アの黒人解放運動組織です。
ネルソン・マンデラは1944年にANCに入党、やがてリーダー的存在となり1991年~1997年まで代表も務めました。
ANCは当初、非暴力主義を掲げて地道に活動を行っていましたが、1960年に起きた※シャーピブル虐殺事件をきっかけに非暴力主義を捨てました。
69名死亡、180名以上が負傷しています。
マンデラはANC入党後はリーダー的存在となり、いくつものストライキやデモの先頭に立ってアパルトヘイト反対を主張したので、マンデラはアパルトヘイト推進派の政党から目を付けられるようになりました。
1960年のシャープビル虐殺事件をきっかけに、政府はANCを非合法組織とみなします。
マンデラはその後も軍事組織の司令官を務め、1962年(44歳の時)に逮捕されました。
1964年に国家反逆罪で終身刑を言い渡されますが、
マンデラは獄中でも勉学に励み、1989年(71歳の時)には南アフリカ大学の通信制過程を追えて法学士号を取得したり、その他にも語学の勉強や、本作のメインとなるラグビーの知識を得たりしています。
マンデラは獄中でも人種差別反対を唱え続けて解放運動の象徴的な存在となり、次第に国中の黒人からからマンデラの釈放を求める声が高まりました。
そして1990年(72歳の時)の2月、ついにマンデラは約27年もの刑務所生活から解放されました。
本作はマンデラが釈放された1990年から始まります。
その後、マンデラは全ての人種が選挙権を得られるように活動を続け、1994年の4月に全人種による総選挙が行われました。
この選挙で、マンデラは南ア初となる黒人大統領に選ばれ、1999年まで大統領を務めました。
1994年に大統領となったマンデラはアパルトヘイトを撤廃しても、まだこの国に根強く残る差別文化をなくそうと努力します。
そのためにマンデラが目を付けたのがラグビーでした。
1995年のラグビーワールドカップの開催地が南アフリカ共和国だったことはご存知の方も多いと思います。
そして、南アのラグビー代表チームのスプリングボクスは世界的にも知名度の高い強豪チームだったので、メディアも国民もラグビーに注目していました。
当時、南ア内でラグビーは『白人と富裕層がするスポーツ』という強い印象があり、実際、マンデラが大統領になるまでボクスのチームには白人しかおらず、スプリングボクスはアパルトヘイトの象徴とされていました。
マンデラはその印象を利用して、黒人選手をスプリングボクスに入れた上で、ボクスのラグビーワールドカップ優勝を狙いました。
白人も黒人もいる新しいスプリングボクスが優勝すれば、対立が多い国民の団結力を高め、国外に対しても南アが変わったとアピールできるからです。
②に続きます。
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・参考サイト様
AFP:故マンデラ氏がラグビー殿堂入り、南アで95年大会を開催
読売新聞:南アフリカ<中>初出場V 歓喜で一つに
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