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殺人鬼レイについて
スーザンが事件の主犯格レイをどう捉えていたかわかりませんが、少なくともエドワードはスーザンの人間性や過去に受けた仕打ちをモデルにレイという冷酷な殺人鬼を創作したと思われます。
レイ本人には自分が悪人である自覚はありませんが、彼の所業や自分勝手な理屈はどう見てもソシオパスやサイコパスの類です。
レイに悪人である自覚が無く自己中心的なところがスーザンに似ていたように思いました。
また、色んな方の感想などを見ていると『レイとスーザンの母の髪型が似ているから、レイのモデルはスーザンの母なのでは』という発言をチラホラ見かけました。
言われてみれば似てなくはない?位にしか思いませんが、劇中劇はスーザンの想像の再現なので もし意図的に髪型を似せていたとしたら、スーザンの中ではレイを大嫌いな母と重ねていたのかもしれません。
スーザンは母親の予言通りの生き方をして性格も似てきているので、スーザンが母親と重ねたレイは、実はスーザンがモデルであるというのは当たっている気がします。
スーザンと母親
スーザンは母親が嫌いで母親に似てると言われることを何よりも嫌がりました。
しかしスーザンが母親の予言通りの人生を送っていることから、スーザンは母親似であり母親嫌いは同族嫌悪であることがわかります。
スーザンは愛を求めてエドワードと結婚しましたが、母親の予言通り数年後には物質主義にとらわれて裕福なハットンを選び、上辺だけは成功者になりました。
しかし物質主義を極めた代償のように虚しさを抱え悩まされます。
意味深な美術品
意味深に映され印象的だった絵画や美術品の意味を考えました。
豊満なマダムたちの展示会
映画の始まりに登場する豊満な中年女性たちの全裸ダンスは、私の映画鑑賞史上最も印象に残った冒頭シーンになるかもしれません。
彼女たちはスーザンの展示会でお披露目された芸術ですが、スーザン自身はあの展示会を「ジャンク(ごみ)」と言いました。
個人的にはゴミだと思ったならなぜお披露目したのか、全裸ダンスを披露して全裸で何時間も固そうな台に寝かせられた中年女性たちの労力をゴミと言うなんてどういう神経しとるんかと不快になりました。
なので、このあたりにスーザンの人の気持ちを考えられない部分が描かれていたように思います。
豊満な女性たちのダンスからは他人の目や意見は気にせず自分の生きたいように生きろ的な強いメッセージ性は感じて、それはスーザンが挑戦を諦めている生き方を皮肉的に表面化するので、だからこそスーザンが嫌ったのかもしれません。
トム・フォード監督は冒頭シーンについて「彼女たちは僕の物語に観客を導いてくれる魔女のようなもので、特に観客を映画に引き込む役割を期待した」という主旨のコメントをしています。
映画評論家からは「見苦しかった」と酷評もあるようですが、個人的にはとても引き込まれたし、何より彼女たちが楽しそうで私も「どんな映画が始まるのか」とワクワクしたので成功だったと思います。
矢で撃たれた子牛と「REVENGE(復讐)」の絵画
スーザンは美術館に飾られた子牛とREVENGEの絵画を見つめています。
この2つの美術品は恐らくダブルミーニングの暗示になっていました。
矢で撃たれた子牛はエドワードの傷ついた心であり、ハットンに浮気されて傷ついているスーザンの心でもあったように見えます。
少なくともスーザンには彼女自身の傷心を表しているように見えたと思われます。
REVENGEの絵画はエドワードの目的が復讐であることをド直球に示しているのと、スーザンの心に潜むハットンへの復讐心でもあり、スーザンがエドワードとデートする気になったのはハットンへの仕返しでもあったことが示されています。
銃を構える男とカメラを見る男
スーザンの自宅に飾られていた銃を構える男とカメラを見て笑う男の写真は、写真家リチャード・ミズラックの作品『Desert Fire #153(Man with Rifle)』です。
カメラに向かって笑っている男はもう一人の男からはライフルを向けられ、さらに笑う男の背後には火が燃えています。
笑顔の男は前も後ろも危険なことを気付いるのか気付いていないのかわかりません。
もし気付いているとしたら笑うことで緊張をほぐそうとしていて、もし気付いてないとしたら色んな意味で大変な状況です。
この奇妙な写真にはスーザンが置かれている状況(復讐しようとするエドワードと、浮気していてさらに会社が経営難のハットンで、笑顔の男はスーザン)が表現されているように見えます。
この写真は個人的にあまり好きになれず、この写真を自宅に飾るセンスや子牛の死体は私には悪趣味に見えてしまいます。
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