映画『怪物』の解説考察をしています!
怪物は誰?、ラスト考察、猫の死体の女子生徒、ビニール袋の中身、雑巾を投げた意味、怪物ゲームの意味、金魚を捨てようとした理由、子どもの足を引っかけた理由、孫の写真、お菓子泥棒などについて書いてます。
鑑賞済みの方のための記事です。まだ観ていない方はネタバレにご注意ください。
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キャスト紹介
麦野 早織…安藤さくら
夫を亡くし、1人息子の湊を育てるシングルマザー。
夫は数年前に不倫相手と旅行中に事故で亡くなった。
湊から担任の保利にいじめられていると告白を受けて学校を訴えるが、モンペ扱いされる。
安藤サクラの代表出演作…映画『万引き家族』、『百円の恋』など
保利…永山瑛太
湊と依里の学校にこの春から赴任した新人教師。あだ名は『ホリセン』。
学校に訴えに来た早織に「シングルマザーは過保護だ」などと発言して火に油をそそぐ。
永山瑛太の代表出演作…映画『アヒルと鴨のコインロッカー』、ドラマ『ウォーターボーイズ』など
麦野 湊…黒川想矢
この春小学5年生になった早織の息子。
最近様子がおかしいことを早織に問い詰められ、保利先生から罵声と体罰を受けたと言う。
星川 依里…柊木陽太
湊のクラスメイト。父親と2人暮らしで、小柄で中世的な雰囲気の男の子。
学校の誰かにいじめられている。
伏見校長…田中裕子
湊と依里が通う小学校の校長。
先日事故で孫を亡くしている。夫が誤って孫をひき殺したことになっているが、教師たちの間では本当は孫を轢いたのは校長自身ではないかと噂がある。
田中裕子の代表出演作…ドラマ『おしん』、映画『夜叉』ほか
星川清高(依里の父)…中村獅童
広奈(保利の恋人)…高畑充希 ほか
解説・考察
1回しか見れておらず見落としや忘れている内容もあると思うので、記事に書かれていない疑問があれば気軽に質問してください!
怪物は誰?
タイトルでもある『怪物』は主要人物全員であり、誰もがちょっとした価値観のずれや思い違いで意図せず加害者にも被害者にもなり、誰もが誰かの怪物(誰かを傷つける存在)になるという意味だと解釈しました。
湊と依里がやっていた「怪物ゲーム」は自分の正体が自分では見えず、ゲームの相手がくれる情報から何者なのかを探ります。
現実もゲームと同じで、自分が怪物かどうかは自分ではわからないのです。
ここで誰が誰の『怪物』なのかをまとめます。
早織の怪物→校長、保利
湊の母である早織にとっての怪物は伏見校長と保利です。
早織は湊の発言を全面的に信じて保利先生についての真相を知るため学校に説明を求めますが、教師陣は早織をモンペ扱いしかしませんでした。
早織は湊を守らなければという意識を優先しすぎて都合の悪い情報や理解出来ない情報(湊のカバンからライターが出てきたときや片っぽの靴の件など)に目をつぶり、被害者であり続けようとしたのです。
保利の怪物→早織(保護者)、校長(学校)、子ども(生徒)
本当は無実だった保利にとって、早織はモンペでしかありませんでした。
早織の訴えは保利には身に覚えのない内容が大半で、保利は早織がひどい妄想で勝手に怒っているようにしか見えませんでした。
後に早織の言い分が間違っていなかったことも保利は理解しますが、それでも早織は保利を解雇に導いた『怪物』です。
また、保利は早織が弁護士を雇うと校長にあっさり見捨てられてしまい、無実なのに「真実はどうでもいい」と言われて社会的地位にも傷をつけられて放り出されるという最悪の結果になりました。
校長の対応はあまりにも冷酷で、保利にとって本当の怪物は校長と言っても過言ではない気がします。
保利の疑いが晴れなかった大きな要因は、悲しいことに学校の生徒たちの心無い思い付きの発言の数々でした。
湊や依里の嘘に始まり、湊が階段から落ちた時は男子生徒が勝手な想像で「ホリセンが突き落とした!」と叫びます。
多くの子どもは精神的に未熟なためときに残酷で、大人よりももっと単純に好き嫌いで物事を判断したり、過激な言動で周囲の気を引こうとします。
保利は生徒に好かれようと彼なりに頑張っていましたが、彼らの嘘や心無い発言は、保利が生徒に好かれることに失敗したことを意味します。
保利としては「何もしてないのに悪者にされた」ことになるので、保利には生徒たちもまた「怪物」に見えたのではないでしょうか。
湊の怪物→早織(母親)、鎌田(いじめっ子)
鎌田は依里をいじめていた主犯の男の子です。
湊は鎌田を怖がって極力避けていました。
早織がことあるごとに「鎌田君にやられたの?!」「鎌田君が言ったの?!」と聞いたり、湊が依里との友情よりもいじめ避けを優先するのは、恐らく湊も鎌田にいじめられていたことがあるからです。
5年生時点では標的ではなかったので、クラスが離れたなどで自然と標的から外れたか、早織が鎌田の親に訴えるなどして守ったのでしょう。
鎌田に反発できず、依里の味方にもなれない様子は第三者から見れば臆病者にしか見えません。
それでも依里が湊を見損なわなかったのは、いじめっ子には逆らえないのが普通だと思っていたからなのか、そもそも依里は嫌がらせにもケロッとしていたり、鎌田たちにサラッと本音で言い返したりしていたので、依里にとって鎌田たちは問題ではなかったのかもしれません。(父親からの虐待の方が深刻なので屁でもなかったのかも)
湊は依里のそういうところに惚れていましたね。
また、湊は早織の持つ「普通の価値観」にも苦しめられました。
湊は早織が大好きでしたが、早織の「普通に結婚して普通の家庭を持ってほしい」という何気ない発言や、湊の行動の理由を正しく理解してもらえないことに苦しんでいました。
湊が勇気を出して本当の事を言えていれば早織もそれなりに理解したような気はしますが、湊は早織に気を使うあまり言えなかったのです。
依里の怪物→清高(父親)
依里にとっての怪物は父親の清高です。
依里は湊にも「お父さんは優しい」などと言っていましたが、雑居ビルに放火したこと、そのビルには清高がいたことから、依里は本心では清高に深い恨みを抱いています。
同性愛者である自分を自然に受け入れていた依里にとって、それを「病気だ」などと言う父親は怪物に他なりません。
依里の鏡文字の意味
依里が鏡文字で書いていたのは、平仮名の「むぎのみなと」だけです。
これは依里なりの相合傘的な意味で書いていたのでしょう。
よく考えると依里は父子家庭、湊は母子家庭で、依里は親から虐待を受け、湊は親から過保護に育てられているので、何となく真逆の存在で2人が合わされば完璧になりそうな気がします。
私自身も平仮名覚えたての頃は鏡文字を間違って書いてしまった記憶がありますが、わざと鏡文字を書くのって難しいので依里は器用な子だなと思いました。
保利とガールズバーの真相
「保利が全焼した雑居ビルに入っていたガールズバーに客としていた」という噂が立ちますが、これはデマです。
火事があった夜、保利は火事を見に来ていた生徒数人と遭遇し、保利を見たことを生徒が親に話し、尾ひれがついて保利がガールズバーの客だったことになってしまったのです。
保利が金魚を捨てようとしたのはなぜ?
金魚は保利の恋人の広奈と結びついています。
保利は自宅で飼っていた金魚をトイレに流してしまおうかと悩み、やっぱりやめました。(やめてくれてホッとしました)
保利が金魚を捨てようとしたのは、恐らく解雇と週刊誌のことがあって広奈にフラレたからです。
広奈はデートの時「男の『大丈夫』と、女の『また今度』は信用できない」と言っていましたが、保利が暴力教師として話題になった途端、「また今度ね」と言って去ってしまいました。
広奈は保利との関係を隠そうとする行動が目立っていたので、ふたりの交際期間は不明ですが、恐らく広奈は最初から保利が本命ではなかったか、別れるタイミングを見計らっていたのです。
車での湊と早織のすれ違い、湊が言おうとしたこと
早織が湊を廃線トンネルで見つけた後、車の中で湊は何か言いますが、ちょうど周囲の音がうるさくて早織には「僕、お父さんみたい…」までしか聞こえませんでした。
早織は湊が「僕、お父さんみたいになりたい」と言ったのだろうと判断して会話を続け、「湊が結婚して家庭をもつまではお母さん頑張るから」と答えます。
しかし、このとき湊が言おうとしていたのは「僕、お父さんみたいにはなれない」でした。
このとき湊が言いたかったのは、恐らく「お父さんみたいに女の人を好きになれない(女性を恋愛対象に見れない)」ということです。
湊は依里が好きだと遠回しに言いたかったと思われますが、騒音のせいもあり早織にうまく伝わらず、逆に早織の価値観を押し付けるようなやり取りになってしまいました。
校長が子どもの足を引っかけた理由
校長がスーパーで走り回る子どもの足を引っかけてわざと転ばせたのは、恐らく校長は自分の孫と同世代の子どもにも、孫の親にも怒り、憎しみなど処理しきれない感情を抱いていたからです。
校長の孫は、校長の自宅駐車スペースで遊んでいて、校長の夫が誤ってひき殺してしまいました。
表向きには校長の夫が逮捕されますが、噂や校長の態度から、本当は孫を轢いたのは校長本人だったことがわかります。
そして校長は孫の死で娘夫婦からも絶縁されました。
校長は被害者でもあり加害者でもあるわけですが、孫を亡くした被害者としての悲しみもありながら、加害者としての感情も持ち合わせている複雑な心理状態に置かれています。
加害者心理を考えると、駐車する時は車はゆっくり動かしますし、孫本人が周囲に注意を向けていれば車に気付いて避けられたはずと考えますし、引いては子どもを駐車場で見守りもせず遊ばせておく娘夫婦にも少なからず思うことがあるはずです。
つまり、校長はスーパーにいた遊びに夢中になっている子どもとその母親が、校長自身の孫と娘と重なり、事故当時を思い出してモヤモヤした結果がわざと足を引っかける行動に繋がったのではないでしょうか。
もしかしたら校長は『こんな場所で走り回ると怪我をするし周囲にも迷惑をかける』と子どもに学ばせたい気持ちからわざと転ばせたのかもしれませんが、第三者から見れば陰湿な行動にしか見えません。
写真立てを見せる意味
校長は早織が座る予定の場所から亡くなった校長の孫の写真がよく見えるように置きました。
これは亡くなった孫の写真を見せることで、早織から少しでも怒りの感情を削ぎ落として興奮させまいとしていたと思われます。
しかしこの作戦は早織にも保利にも不幸自慢にしか見えず効果はあまりありませんでした。
お菓子泥棒
校長が夫の面会していたとき、「孫がお菓子泥棒を嫌がっていた」という話が出ます。
この時の会話からは校長と夫が老後のお菓子(老後の楽しみ=娘夫婦と孫との交流)を失った喪失感がにじみ出ていたように感じました。
次のページに続きます!
2ページ目は湊と依里が嘘をついたは理由、猫の死体、スニーカーについて、「たまにそうなる」の意味、ラスト考察です。
感想などお気軽に(^^)
衣里がいじめを保利のせいにした理由は単に湊を守ろうとしたのではないでしょうか?
また状況的に自分のいじめが発覚する可能性があったため保利の話に逸らすという打算も考えられます。
少なくとも湊を悪く言われた復讐心が動機のメインとは考えにくいです。
保利のドアにかけられていた袋の中身は豚の脳かそれに近いものだと思います。
靴ではありませんでした。
ぞうきんを渡した女児は木田さんで、BL本を読んでいたのもこの女児でした。
また、湊と衣里が音楽準備室に行くよう仕向けたり猫の死体の話をしたのもこの子です
校長の行動には不可解な点が多かったので、考察は勉強になりました。
依里の逆文字に関して
「むぎのみなと」だけ逆文字で相合傘的な意味で、依里は器用だとされていますが、そこだけ解釈が違いました。
湊の母が依里の家を訪問した際にも鏡文字を指摘されており、国語の時間の朗読でも依里はスムーズに読めず、間違えていました。
そのため依里は学習障害を抱えている可能性が高いです。
それに付随して、依里の父が「豚の脳」「怪物」と言っている理由は同性愛に対してではなく、学習障害に対しての発言だととらえていたのですが、どう思われますか?
すごい!色々な伏線が見事に回収されてますね。私はこの考察を読んで自分の読みがなんて浅いのだろうと恥ずかしくなりました。近いうちにもう一度劇場へ足を運んで見ようと思います。
一つ、校長先生ですが
彼女はわざと写真立てを保護者に見えるように置いたり、保利を庇うのが難しくなるとあっさり切り捨てたりと薄情なイメージですが、
私は、湊と一緒に吹奏楽器を奏でる姿は、児童に誠意をもっている、本当に学校(生徒)、を守りたい人かと思うのですが、その辺はどう思われますか?
けろよん さん
こんにちは!コメントありがとうございます(_ _)
個人的な印象ですが、校長は大人同士のいざこざに疲れきっていて、身代わりになってくれた夫のためだけに残りカスしかない気力を振り絞って社会生活を送っているような、そんな人に見えました。
おっしゃる通り校長が子ども好きで生徒たちに愛情があるのは間違いないと思いますが、保利への対応、早織への態度を見ると社会復帰が早すぎたのでは?と思ってしまいます。
ご返信ありがとうございます
なるほど、校長も大切な孫を失い(しかも自分のせいで)計り知れない喪失感を抱えながら、対応がおざなりになっているのでしょうか。確かに社会復帰が早すぎたのだろうと思いました。
ただ本質は子供(児童)には、愛情を持っているのだとしたら、その辺は救われます
それにしても、私は1度見ただけでは気づかないことが多すぎで
もう一度見に行こうと思います
けろよん さん
また新たな発見や解釈があったら教えてください!
こちらこそありがとうございました(^^)
物語のラストは明るいものだと感じました。
「生まれ変わったのかな?」と言う依里に、「ないよ。もとのままだよ」と答える湊。それに対して、「そっか。良かった」と依里は笑顔を見せます。
これは、互いの愛情を確かめ合うとともに、それで良かった、“あなたを好きになれる自分”と自分自身を受け入れていると解釈しました。
鉄橋の前にはあるはずのバリケード ーー2人の望む世界を阻むものは、もうない。
この鉄橋とバリケードの描写は、それぞれが自分の中に作っていた社会に対する心の壁がなくなったことを暗示しているのではないかと思います。
男らしくない、同性を好きになる“普通ではない自分”を知られることは恐ろしい。でも、そんな自分を本当に理解してくれる存在と出会えたことで、これから2人は新しい世界に足を踏み入れることができるのだと感じました。
猫を土に埋める描写が土砂で埋まった電車の伏線だという考察は私も同意します。
しかし、単純な死の伏線ではないように思います。電車の窓から抜け出して、水路に降り、光を目指して四つん這いで進んでいく姿は、さながら今まさに産まれ出ようとしている赤ん坊のように感じられました。
このことからも、自分自身を受け入れた“新しい自分”として生きていく2人という明るいラストであると解釈します。だからこそ、生まれ変わってないし、「そっか。良かった」なのだと思います。