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ソフィーはあの後どうなった?
アーカムからアパートに戻ったアーサーは、1人になりたくなかったのかソフィーの部屋に行きます。
すると、そこに現れたソフィーはアーサーが居ることに驚いて『特に親しくない同じアパートの住人』として接していました。
アーサーはソフィーに恋愛妄想を抱いていて、今までのデートや病院に来てくれた彼女は全てアーサーの妄想(幻覚)だったことが判明します。
部屋のシーンの後からソフィーは登場しないので、その後の彼女の生死が気になる方も多かったと思います。
アーサーはソフィーに「出て行って」と言われた後、恐らく彼女を殺したり傷つけることはせず、そのまま素直に部屋から出たと思われます。
アーサーは自分に親切にしてくれる人に危害は加えないからです。
ちなみに、印象的だった『手を銃に見立てて自分の頭を撃つジェスチャー』は、『死にたいくらい最悪な気分』という意味だったと想像しています。
冷蔵庫にこもるアーサー
アーサーが冷蔵庫に入る演出は脚本には組み込まれておらず、フェニックス氏がアドリブで演じたものだったそうで「もし自分が精神不安定で重度の不眠症で、大きな精神的ショックを受けるようなことが起きたら、その日の夜はどうやって過ごす?」と想像した結果の冷蔵庫突入だったそうです。
たしか冷蔵庫に入るタイミングはアーカム病院でペニーとアーサー自身の過去を知った後でした。
私はこれもアーサーが即興で思いついたジョークのひとつだったのではと思っていたんですが、ジョークではなく素で入ってしまった模様です。
何も考えず直感的に取った行動だったとすると、真っ暗で寒い冷蔵庫の中で冬眠(凍死)してしまいたいという願望の現れだったのかもしれません。
でもいざ入ってしまうと冷蔵庫のウィーンって音うるさそう。
あとは、また一歩闇に近づいた(ジョーカーに近づいた)ことを体現するためのアイディアでもあった気がします。
なんか適当ですみません。
マレー(ロバート・デ・ニーロ)を殺した理由
アーサーがマレーを殺したのは、番組内でマレーがアーサーを笑いものにしたからです。
マレーはアーサーにとって理想の父親像そのものでした。
アーサーが「君が息子ならこの地位もスタジオもすべて捨てられる」とマレーに言ってもらう妄想からよくわかります。
マレーの番組でアーサーのライブ映像が取り上げられたとき、アーサーは褒められることを期待しますが、全く逆でマレーはアーサーのジョークに冷酷な突っ込みを入れてアーサーがスベッていることを笑いにしました。
アーサーはマレーを尊敬していたからこそ、絶望と憎しみがひときわ大きかったのでしょう。
出演を承諾したときの表情から察するに、最初からアーサーはマレーに仕返しするために出演を受けたと思われます。
恐らく最初はジョークとして自殺しようとしていたようですが、市民が暴走しているのを見るとアーサーはハッピーな気分になるので、自殺はやめて代わりにマレーを殺害したのではないでしょうか。
ラストシーンについて
ラストの、アーサーが白い部屋の中で精神科医と話した後、血の足跡を付けて部屋から抜け出し、病院の職員と追いかけっこしているシーンについてです。
これはジョーカーが病院から脱走しているシーンで、恐らく精神科医が持っていたペンを奪うなどして攻撃したのでしょう。
気になるのは、緑に染めた髪の色が地毛の茶色に戻っている点です。
このシーンの直前の、ボンネットに立っていた時からはかなりの月日が経っている(染めた髪が自然に元に戻る位は時間が経っている)ことになるのか、もしくはアーサーの「面白いジョークを思い付いた」という発言と絡めると、ラストシーンの病院になるまでの話自体が全部想像だった可能性もあります。
今回、私は全部妄想説を推してます。
全て想像だったと考えると、辻褄が合う点はいくつかあります。
・いつも11:11の時計
・ブルースが死んだ両親のそばに立ち尽くす様子の回想(この時アーサーはボンネットの上で踊っていたので見ていないはずの光景)
・ペニーのカルテを強奪してから誰も追って来ない
・行われていないペニーの葬儀
そして、私が『アーサーとトーマス親子説』を信じるのも『この話が全部妄想だから』という理由が含まれています。
だってどうせ妄想なら、アーサーとトーマスが親子で、アーサーとブルースが兄弟という設定の方が面白いですし、なんかジョークっぽくないですか(適当)
また、ジョーカーの過去が不明という漠然とした設定や、映画『ダークナイト』でジョーカーが彼自身の過去をその場の思いつきで語っていたこととも結びつきます。
(制作側は結びつけていないかもしれませんが)
本作も、ジョーカーの過去である可能性のある1つのお話であり、彼が脳内で作り出したコメディ映画でもあると思っています。
名言など
印象に残った台詞を引用しています。
『I just hope my death makes more cents than my life.』
アーサーお気に入りのジョークのようですが、この意味不明なところにアーサー独特のセンスが表れています。
日本語だと『硬貨』と『高価』が掛かるような意訳があるので、原文の『cents(センツ)』には『sense(センス)』が掛けてあったと思われます。
ちょっと前まで誰も僕を見てなかった
僕は存在するのかなって ソーシャルワーカー:
残念なお知らせがあるの
アーサー:
僕の話は?聞いてないよね 何ひとつ
毎週同じ質問ばかり『仕事は?』『落ち込んでない?』
もちろん落ち込んでばかりさ でも何も聞いてくれない
こう言ったんだ
『僕はずっと自分が存在するのかわからなかった』
でも僕はいる 世間も気づき始めた
ソーシャルワーカー:
市の予算削減でここは来週で閉鎖よ
全面的な予算カットで福祉も例外じゃない
面談は今日が最後よ
市にはどうでもいいの あなたたちも私たちも
かみ合わなさが印象的だったので。
アーサーが言うように、ソーシャルワーカーの女性はアーサーの話を全く聞いておらず、指摘しても直そうとせず、ただ事務的な情報を伝えるだけです。
彼女もアーサーと同じく社会からむげに扱われ、アーサーの話を聞く心の余裕を失くしてしまったのでしょう。
『The worst part about having a mental illness is people expect you to be have as if you DONT.』
アーサーが日記兼ネタ帳に書いていた一文です。
ありのままの自分が社会に受け入れられない苦悩が書かれていますが、ジョーカーになったアーサーはありのままの姿に自信を持ち、受け入れてくれない人間は排除するようになったので悩みは解決しています。
僕が欲しいのは温もりとハグだよ パパ 優しい言葉をくれよ!
なぜあんたらは母を悪く言う?』
トーマスは冷たく追い返したのでアーサーの心の闇は一層深まります。
I used to think that my life was a tragedy, but now I realize, it’s a comedy.
アーサーがペニーを殺す直前の発言です。
元ネタは喜劇王と呼ばれたチャールズ・チャップリンの名言のようです。
「人生をクローズアップすると悲劇だが 遠目に見れば喜劇だ」
「Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.」
チャップリンの名言は「どんなに悲しいことがあっても、いつか笑って話せる日が来る」的な内容に脳内変換出来ます。
アーサーの名言は凡人の私には理解が難しいですが「悲しみや絶望を面白い(喜劇)と思えば、今抱えている苦悩から解放されて、もっと自由で気楽に生きられる」という発想に至った(主観を変えた)発言ではないかと思いました。
人生に悲劇しかないアーサーが、悲劇を喜劇に脳内変換したのです。
悲劇を喜劇に脳内変換すれば、今まで悲劇ばかりだったアーサーの人生はハッピーだらけということになります。
テレビ出演時の発言です。
悲劇を喜劇に脳内変換したアーサーは、自分の人生を笑えるものにすると決めたのでしょう。
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