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ラスト考察:渡利みさきはなぜ韓国にいた?
ラストはあえて詳細を明かさないことで解釈を観客に委ねるような締めくくりになっているので、ここでは私なりに感じたことを書いていきます。
みさきは韓国のスーパーで買い物をして家福の愛車に乗り込み、まっすぐ続く道を走り始めます。
車には犬が乗っていて、家福の姿はありません。
家福は広島の舞台が終わった後もユンスと交流があり、ユンスに誘われて韓国で仕事をしていたのではないかと推測しています。
車を勧告に持って行くほどの長期滞在だと思われ、みさきはまた家福の専属ドライバーをしていたのではないでしょうか。
家福とユンスの仕事中、みさきはユンスの愛犬の面倒をみながら買い出しをしていたのがラストシーンの状況ではないかと思っています。
広島で家福とみさきは家族の死の悲しみを乗り越えて生まれ変わり、韓国での生活は新しい世界での新しい人生を表現していたように見えました。
日本でのシーンは車内か運転する姿を正面から映すシーンばかりでしたが、韓国のシーンでは車を背後から撮り、その先にまっすぐ続く道路がよく見える画だったのも、過去ばかり見ていた家福とみさきが未来を見られるようになったことを暗示していたように思えます。
ちなみにですが元々この映画の舞台は韓国をメインに想定されていたものの、コロナの関係で広島に変わった結果、韓国でのシーンは撮影が少なく済むラストに使う形になったようです。
『ゴドーを待ちながら』
家福は基本的に何を考えているのか読みづらく、北海道で号泣するまで何を思っているのかよくわかりませんでしたが、振り返ると舞台の内容や、車の中で聞いていたワーニャおじさんの台詞に家福の心理が投影されていたように思いました。
家福が演じていたこの舞台は、フランス人劇作家サミュエル・ベケット(1906~1989)が書いた戯曲で、1954年に出版されたものです。
『ゴドーを待ちながら』は不条理系の物語で、2人の浮浪者が待ち合わせしているゴドーと言う男をひたすら待ち続ける話です。
ゴドーは作中に現れず、彼が何者なのかも明かされませんが、2人の浮浪者にとってゴドーは救世主であり唯一の頼みの綱のような存在です。
ちなみにゴドーはゴッド(神様)であるという説が有力とされています。
2人はゴドーを待つことだけに時間を浪費し、もしゴドーが現れなければもう死ぬしかないなどと言い合うほどに困窮しています。
この舞台は『ゴドー』という希望にすがってばかりで自分では何もしようとしない浮浪者を描くことで、存在意義を見失っている現代人や、ただ漠然と「何か」を待ち続けるばかりで自分からは行動しない人々に「この2人のような人生で良いのか?」と訴えるような作風が人気を呼んでいます。
この舞台の内容には家福の心理状態が投影されていたと思われます。
家福がこの舞台を演じたのはまだ音が生きていた頃で、当時から家福は音に対して言いたいことも言えない状況にあり、お互いに愛し合っているのは確かなのに、決定的な溝がありました。
その溝がわかるのが、家福と音の子どもについての会話です。
音が「子ども欲しかった?」と聞いた時、家福は「わからないし、君が望まないことを僕だけ望んでも仕方ない」と曖昧な回答をします。
この答えには家福の意思がわかる言葉は何もないので、彼は普段からこう言う風に本音を隠し、音の希望に従う形で夫婦生活を保ってきたのではないでしょうか。
ただし、家福に音との家庭について隠された望みがあったのか、本当に望みや理想が無かったかのかはわかりません。
家福は音との間にある『溝』が、待ち続ければいつか自然に(もしくは奇跡が起きて)わだかまりは消えてなくなり、本当の信頼関係を築けるはずだと思っていたのではないでしょうか。
『ワーニャ伯父さん』
『ワーニャ伯父さん』はロシア人作家のアントン・チェーホフ(1960〜1904)の戯曲で1897年に出版された古い作品です。
この作品を知らない方のために『ワーニャ伯父さん』のあらすじを簡単に紹介します。
主人公のワーニャは47歳の独身男性で、セレブリャコーフという年老いた大学教授の前妻の兄(ややこしい)です。
ワーニャは長年、姪のソーニャと一緒に領地経営をしています。
ソーニャは教授と前妻の娘です。
この領地は元々ワーニャの父が、ワーニャの妹と教授の結婚祝いにプレゼントした土地でしたが、父は領地の購入代金を全て支払わずに死んでしまい、土地はソーニャが相続しました。
ワーニャは崇拝する教授と亡き妹と可愛い姪のためにと長年 領地の借金返済のために働き、領地経営で得たお金は全て教授に送金していました。
教授はワーニャに年俸を支払っていましたが、その額は500ルーブリ(約50万円)と激安でした。
ワーニャは少ない年俸にも文句ひとつ言わず、教授のために働くことを生き甲斐としていましたが、ちょうど借金返済が終わった直後位に、教授がリウマチと脂肪肝を患い、療養のため後妻のエレーナと共に領地に引っ越してきました。
ワーニャは教授の生活ぶりを近くで見ると、今まで尊敬していた気持ちが吹き飛んで不満を募らせていき、今まで教授のために働いてきた日々を後悔するようになります。
ワーニャが苦労して節約して送金したお金で教授は美しい後妻と贅沢な暮らしをしていたことがわかったり、教授は贅沢な暮らしをしながらワーニャの年俸を増やしてくれたこともなかったからです。
そんな日々が続いたある日、教授が「この領地を有価証券に変えて、余ったお金でフィンランドに別荘を買いたい」と言い出します。
それは、ワーニャとソーニャが家を失うことを意味します。
ワーニャとソーニャには貯金する余裕もなかったため、当然引っ越し資金などありません。
ワーニャは教授に激怒しますが、教授は困ったような顔をして、しまいには「今更そんな不満を言われても困る」と怒ってしまいます。
切れたワーニャは銃で教授を殺そうとしますが、弾は外れてしまいました。
その後ワーニャは絶望に襲われ、知人の医師アーストロフの薬箱から盗んでいたモルヒネで自殺しようとしますが、アーストロフにバレてモルヒネを奪い返されてしまいました。
「これからどうやって生きていけばいいんだ」と嘆くワーニャに、ソーニャは「どんなに辛く苦しくても、生きていくしかない。私たちの生き様を神様に報告すれば、きっと天国に連れて行ってくれるわ」と語りかけました。
恋愛関係を捕捉しておくと、ワーニャは教授の後妻エレーナに、ソーニャは医師アーストロフにそれぞれ恋していましたが、アーストロフとエレーナが両想いになり、エレーナは教授の死後はアーストロフと交際する未来が仄めかされ、ワーニャとソーニャは失恋します。
最後まで新たな生きる希望を見出せずに終わってしまうので若干しんどい話ですが、チェーホフが生きたのは戦争が耐えない時代だったので、生きることそのものに価値を見出そうとする作風は戦時中ならではなのかもしれません。
この『ワーニャ伯父さん』は、妻という生きる意味・希望を失くして失意から抜け出せずにいた家福の心境が現れた作品だったと思います。
ワーニャ伯父さんの台詞と家福の心境
ドライブ中に家福が音の声を聞きながらワーニャ伯父さんのセリフ読みをするシーンでは、ワーニャ伯父さんのセリフに家福の心境が投影されていたように感じました。
以下、家福が読んでいた台詞で印象的だったシーンのみ抜粋します。
その気になれば僕だって なんでも手に入ったのに この年になったらもう無理だ
ソーニャ:おじさん つまんないわ そんな話
ワーニャの母:お前、なんだか自分の以前の信念を責めてでもいるようだね でも悪いのは信念ではありません 悪いのはお前自身です
音の不倫に対する不満が表れていたように感じました。
さらっと「悪いのはお前自身です」と返されているところに真理を感じます(笑)
アーストロフ:どうやら君 やっかんでいるんだんな
ワーニャ:あぁそうとも 大いにやっかんでるさ
奴の女運の強さときたら いかなるドン・ファンといえども あれほど百戦錬磨とはいかない
やつの最初の細君 つまり僕の妹だけれど それはすばらしい…
家福が自動車事故を起こす直前に読んでいた箇所です。
ちなみにドン・ファンは『プレイボーイ』や『女たらし』の代名詞として使われる架空の男性貴族の名前で、スペイン人劇作家ティルソ・デ・モリーナ(1579〜1648)の作品に登場するキャラクターです。(現在でもよく使われるのかは不明)
この時点は音と高槻の不倫が発覚した後なので、家福のイライラが表現されていたと思われます。
ワーニャ:それは あの女の貞淑さが徹頭徹尾まやかしだからさ そこにはレトリックがふんだんにあるが ロジックはない
こちらも家福の音への不満が投影されているように感じます。
過去は何もなく過ぎ去った どうでもいい しかし現在はもっとひどい 僕の人生と愛はどうしたらいい?
エレーナ:あなたが愛だとか恋の話をされると 私 頭がぼーっとして
何をお話しすれば良いのかわからないの
あぁ くわばらくわばら
ソーニャ:仕方ないの 生きていくほかないの ワーニャ伯父さん 生きていきましょう 長い長い日々と 長い夜を生き抜きましょう
運命が与える試練にも じっと耐えて 安らぎがなくても ほかの人のためにも 今も 年を取ってからも働きましょう
そして最期の時が来たら 大人しく死んでゆきましょう
そして あの世で申し上げるの あたしたちは苦しみましたって 泣きましたって つらかったって…
音が倒れていることがわかる直前のせりふです。
舞台のラストシーンを入れることで、家福が音の死により人生のターニングポイントに差し掛かっていることが表現されていたように感じます。
お前のせいで 僕は人生の華の歳月を無駄にし 台無しにしてしまった
お前は僕の敵だ 憎き敵だ
セレブリャコーフ:この馬鹿者 この土地が君のものなら 好きにすれば良い 私は要らん
テレーギン:私 今すぐ出て行く こんなの地獄よ もう耐えられない
ワーニャ:僕だって才能もあれば頭もある 度胸だってあるんだ
まともに人生を送っていれば ショーペンハウエルにだってドストエフスキーにだってなれたんだ
議論はもうたくさんだ あぁ 気が狂いそうだ 母さん僕はもうダメです ダメだ
ヴォイニーツカヤ夫人:先生の言う通りになさい
ワーニャ:母さん 僕はどうすりゃいいんです?
いや いい 言わなくっていい どうすりゃいいか一番僕がわかってる
いいか 今に思い知らせてやる
高槻と再会する直前です。
ワーニャが激怒しているシーンの台詞なので、家福の高槻に対するドロドロした感情が表現されていると思われます。
みなさん 大切なのは仕事をすることです 仕事をしなくてはなりません
家福が高槻と飲んだ後です。
家福は高槻に対する個人的な感情を排除して仕事に集中しようとする思いが表現されていたと思われます。
その13年を 僕はどう生きればいいんだ
家福が人生を悲観している心情が表れています。
この後、家福は渡利と一緒に北海道に行き、音の死をちゃんと悲しむことができます。
さらに高槻が逮捕されてワーニャ役を家福が演じることになり、舞台のラストシーンには、家福が音の死を乗り越えて人生をリスタートする気になるまで立ち直ったことが表現されていたように思います。
以上です!読んで頂きありがとうございました。
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