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榛村はなぜ爪を捨てたのか
物語は榛村が殺しの証拠をダムに捨てるシーンから始まります。
一見きれいな花びらのようにも見えるそれは、よく見ると人間の爪だったことが後に判明します。
榛村は過去になぶり殺した被害者たち全員(根津かおるは除く)の爪を小瓶に入れて保管していました。
おぞましいですが、榛村はその爪をまさに花びらのように愛らしいと思っていたことが表現されています。
ここで疑問なのは、なぜ榛村が爪を捨てたのかです。
土に埋めた死体8体はそのままなので、爪を捨てた所で死刑は変わらず大した証拠隠滅にはなりません。
重要なのは、榛村が逮捕されるとわかった時に証拠隠滅して生き残るか、潔く死刑になるかを天秤にかけて死刑を選んだということです。
支配欲の塊だった榛村にとって爪コレクションは肉体的な支配を象徴し、拷問の楽しみを思い出させてくれる大切なものです。
爪を捨てた理由として思い浮かぶのは、他人に大事なコレクションに触れられたくなかったのがひとつです。
爪は警察にとっては被害者特定の重要な証拠になるので、見つかれば間違いなく回収されます。
大切な物を誰にも触られたくない気持ちは支配欲の強い榛村は人一倍強いはずなので、爪を永遠に自分だけのものにしておくために捨てたのでしょう。
また、榛村は逮捕されれば身柄を拘束されます。
そうなるともうターゲットたちを物理的に支配することは出来ないので、刑務所の中からでもターゲットたちと関われる方法として精神的に支配したり操ったりする方法を考えました。
それが根津かおるを殺した動機にもつながるわけですが、榛村は肉体的支配からの卒業や別れの意味で爪を捨てたようにも思えます。
面会室から出てくる榛村大和
面会シーンの仕切りガラスの反射をうまく使うシーンは映画『三度目の殺人』っぽさがあったり、映画『凶悪』にも似た部分を感じました。
雅也が面会室に行ったとき、榛村はガラスをすり抜けて雅也の指に触れたり、面会室の壁を通り抜けて雅也の首根っこを掴みながら語り掛けるシーンが印象的でした。
現実的にはありえないこれらのシーンには、榛村が雅也をはじめとする元ターゲットに抱く執着の強さが表現されていたように見えました。
特に首根っこを掴むところは、榛村から心が離れかけている雅也に対し、榛村は得意の話術で心を繋ぎ止めようと内心必死だったことを表現していたように感じます。
首根っこを持つのは榛村の『支配欲』の表れです。
榛村大和の過去と雅也の母の関係
榛村は子供の頃に実の親とは引き離されて、虐待を受けた子どもを救う活動をしていた榛村織子の養子になりました。
つまり、榛村は子供の頃に虐待を受けていたのです。
また、雅也が見つけた母衿子(中山美穂)の写真から、榛村大和と衿子に接点があったことがわかります。
衿子もまた実の母親からの虐待で榛村織子の養子になった過去を持ち、大和と衿子は榛村織子の自宅で一緒に暮らしていた時期がありました。
榛村と衿子がどんな関係だったのか明かされていませんが、衿子も金山と同じように『自分では何も決められない発言』をしていたので、榛村に支配されていたと思われます。
もしかしたらですが、20歳だった衿子が妊娠してしまった強姦事件も、その男に衿子を襲うように仕向けたのは榛村だったのかもしれません。
榛村は雅也を通して衿子にも『望まれない子どもを処分した黒歴史』を思い出させて衿子の苦しむ顔を拘置所の中で想像して楽しんでいた可能性はあります。
ラスト考察:榛村大和と加納灯里の関係
雅也と灯里は無事カップルになりましたが、2人が同郷で同じ中学に通っていたことが伏線となり、彼女もまた榛村の元ターゲットであり手紙で交流していたことが判明しました。
灯里も榛村にしっかり洗脳されていて、殺人衝動が芽生え始めていたのです。
ラストは灯里が「好きな人の一部を持っていたい気持ちがわかる 雅也もわかってくれるよね?」という質問で終わります。
髪の毛切るぐらいで済めば幸せですが、あの後雅也は灯里に襲われてしまうでしょう。
相手は女の子なので雅也が負けて殺されてしまうのは考えにくいですが、最悪指など体の一部を切断されてしまうかもしれません。
雅也もまた、灯里を通して榛村に支配されかけていたのです。
タイトル『死刑にいたる病』の意味
榛村を信じた雅也や灯里がどうなっていったかを考えると、榛村大和が『死刑に至る病気』そのものだったように見えました。
面会室のシーンでガラスに映る榛村の反射が雅也の顔に重なった瞬間が、雅也に榛村大和に洗脳(感染)した瞬間です。
『榛村大和病』に感染した雅也は、その後自信が付いた顔つきになり、榛村がターゲットにしそうな女子高生に意味深に微笑みかけました。
シリアルキラーを親しげに「大和さん」と呼び、衿子にも「その口調、あの人(榛村)にそっくりよ」と言われて雅也が嬉しそうなのも印象的でした。
榛村大和病にかかると榛村大和のようになりたくなってしまうのです。
一方で、榛村大和という人物像を作り上げたのは大人たちの虐待や同級生のいじめなので、『死刑にいたる病』は『悪意の集合体』、『悪意に支配された人間の成れの果て』という風にも捉えられる気がします。
以上です。また思いついた内容があれば更新します。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
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参考サイト様
感想などお気軽に(^^)
死刑にいたる病の考察を拝見させて頂きました。
映画を見終わった後、腑に落ちない箇所が多くあったので、ネットで考察を調べたところ、こちらのサイトの考察に辿り着きました。
他のサイトよりも考察がしっかりされており、腑に落ちない箇所も理解することがてきたので、とても気持ち良かったです。ありがとうございました。