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生死去来 棚頭傀儡
読み:せいしのきょらいするは ほうとうのかいらいたり いっせんたゆるとき らくらくらいらい
意味:生と死が繰り返される。棚に吊った傀儡(あやつり人形)が、糸を切ればあっさりと崩れ落ちるように。
引用元:啓発書『花鏡』月菴宗光 著(臨済宗大應派の僧)
哲学的ですね。
生命の生と死が繰り返される様子を操り人形に例えた言葉で、キムの関与を示すキーフレーズでもあります。
この古語は作中後半にいたるところで登場します。
人の上に立つを得ず
意味:人を従えるリーダーになることも、リーダーに仕えることもできない人間は、道端に倒れる(落ちこぼれる、行き倒れる)のがお似合いだ。
引用元:警句集『緑雨警語』斉藤緑雨 著
キムがどんな人物なのかをトグサに説明する際にバトーが出した引用です。
キムは社会に馴染めず落ちこぼれて、汚い仕事も請け負うハッカーになったと言いたいのでしょう。
ロバが旅に出たところで
引用元:西洋のことわざ
こちらもバトーがキムを説明するときに出した引用です。
ロバは西洋では「馬鹿・愚か者」という意味で使われることがあります。
愚か者がビッグになろうと思って旅に出ても、本質が変わらない限り何をしたって変われるはずがないという意味です。
バトーはキムに対してかなり辛口ですね。。
寝ぬるに尸せず
読み:いぬるにしせず
意味:死んだように眠ってはいけない
引用元:啓発書『論語』孔子
死んだふりをしていたキムにバトーがかけた言葉です。
死んだフリなのはわかってるぞこのやろーと言っています。
未だ生を知らず 焉んぞ死を知らんや
意味:まだ生について十分に理解していないのに、どうして死を理解できるだろうか。
引用元:孔子『論語』
バトーとキムの会話でキムが出した引用です。
死を理解することは難しいとバトーに訴えています。
多くは覚悟ではなく愚鈍と慣れでこれに耐える
人は死なざるを得ないから死ぬわけだ
引用元:『箴言集』ラ・ロシュフコー(文学者)
バトーとキムが死について話していた際にキムが出した引用です。
1行目は難しいですが、2行目が訳してくれています。
人体はゼンマイを巻く機械であり
引用元:『人間機械論』ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー(哲学者・医師)
キムの屋敷で2度目の無限ループに陥った際にバトーが出した引用で、人間を人形や機械に例えた一文です。
普通のマシンは人の手で充電なり修理なりをしなければならず自分で自分の世話ができないが、人間は食べることや寝ることなど生命維持に必要な行動(機械で言うゼンマイを巻く行動)を自分で出来るので、機械にとって人間は永久運動の見本になる、ということです。
最近は勝手に自分で充電して勝手に動いてくれる掃除機なども登場しているので、永久運動に近づきつつあるかもしれませんね。
神は永遠に幾何学する
引用元:プラトン(哲学者)
無限ループにはまったトグサの脳内でバトーが出した引用です。
神様はずっと哲学的なことを考えているよね、という意味でしょうか。
無限ループに居ることを暗に伝えているんだと受け取りました。
理非なき時は鼓を鳴らし攻めて可なり
理非なき時は 鼓を鳴らし 攻めて可なり
意味:どうすれば良いかわからないときは、激しく攻めて良し。
引用元:『論語』孔子
ロクス・ソルス社へ乗り込む前にバトーが出した引用です。
非常にバトーらしい言葉だと思いました。
鳥は高く天上に隠れ 魚は深く水中に潜む
鳥は高く天上に隠れ 魚は深く水中に潜む
引用元:警句集『緑雨警語』斎藤緑雨
こちらもロクス・ソルス社へ乗り込む前のバトーの引用です。
この発言の後に映る鳥は、素子がバトー(とトグサ)を見守っている目線だと思われます。
バトーは恐らく素子を思いながら言っているので『鳥=素子(ネットの世界を自由に旅している)、魚=バトー(決して表に出ない9課の人間)』と捉えると、お互いがいるべき場所にいるということでしょうか。
ちなみに全文は
鳥の声聴くべく、魚の肉啖うべし。これを取除けたるは人の依怙なり。
意味は
『鳥は空高くに、魚は深い水中に隠れながら生きている。
人は鳥の鳴き声を美しいと感じるので殺さず、魚は鳴かないので人は魚を殺して食べる。
このような扱いの違いは人間のエゴで決められる。』
のような感じになると思います。
全文を見るとバトーは「素子がいないと寂しいと感じるのは俺のエゴなのか?」と自問自答しているようにも感じます。
聖霊は現れたまえり
聖霊は現れたまえり
意味:聖霊が現れた
引用元:聖歌『Veni Sancte Spiritus』
バトーがロクス・ソルス社の船に潜入し、素子と再会したときにバトーが出した引用です。
単純に、やっと素子に会えて嬉しいという意味です。
何人か鏡を把りて 魔ならざる者ある
魔を照すにあらず 造る也
即ち鏡は 瞥見す可きものなり 熟視す可きものにあらず
意味:どんな人でも鏡を持つと心に魔がとりつく
鏡は魔を映すものではなく 魔を生み出すものだ
よって鏡はたまに見る程度にするのが良く じっと見つめるものではない
引用元:警句集『緑雨警語』斉藤緑雨
ハダリたちを倒しているときに素子がつぶやいた引用です。
こちらを攻撃してくる同じ顔の人形たちは、同じハダリの姿をしている素子にとっては『鏡(魔)』そのものです。
鏡(ハダリ)をよく見てしまうと、自分も魔にとりつかれそうな気分になったのかもしれません。
鳥の血に悲しめど
意味:鳥は声をあげるので殺すと悲しまれるが、魚は声がないので誰も悲しまない。声があるものは幸せだ。
引用元:斎藤緑雨(小説家)『緑雨警語』
ロクス・ソルス社で助けた女の子がバトーに怒られて泣き出したとき、素子が出した引用です。
『鳥=人間、魚=人形』に例え、言葉で意思表示ができる人間は幸せであり、動くことも喋ることもできない人形がいかに可哀そうかを語っています。
が、女の子に聞こえるように話していたかは不明です。
引用は以上です!難解な台詞まとめは次の記事です。
引用は網羅しているつもりですが、見落としがあるかもしれません。発見次第修正していきます。
この記事がお役に立てていたらハートマークを押してもらえると嬉しいです(^ ^)
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・参考サイト様一覧
・ちょんまげ英語日誌:孔子の論語 先進第十一の十二 未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん
・150年目の移民:映画「イノセンス」全引用・名言まとめ
感想などお気軽に(^^)
はじめまして。
本日、たった今、はじめてイノセンスを観てきました。
あまりの引用の多さに困惑したあと、絶対にまとめている人がいる…!と探してここにたどり着きました。感謝に耐えません。理解できていなかった内容に関してほぼ知ることができました。
解釈の部分も大変興味深く拝見させていただきました。
この作品に低評価を付ける人は、普段ありふれているような物事をもう一回改めて考える際に、SFだったり哲学だったりという尺度を組み入れて考えることを楽しめないんだろうな、と勝手に納得したりしました。オタクはこういうの好き、っていうど真ん中の一つかとも思いますが…笑
ただの生身の人間同士の争いならばそこに動機があれば良いのですが、このお話に関してはそれだけじゃないのが面白いところですよね。人間と人形と生命の捉え方、加えて、書いていらっしゃったようにバトーの想いと葛藤が混ぜ合わさってこそ、贅沢な間のとり方が活き、考えさせられる内容になっているのだと感じました。
映像に関しても目の覚めるような綺麗さで、攻殻機動隊のシリーズを見回しても傑作の部類だと思います。
重ねて、素晴らしいブログ記事をありがとうございました。
解説記事ありがとうございました。
最近この映画を見て、わからなかったところや
引用元などが補完されて大変助かりました。
最後の素子の台詞「孤独に歩め~……」には前文があると知り、
バトーにそう語り、バトーが終の語を答えたあとの台詞は
わたしはいつもそばに→『けれどあなたには私(ともに歩むよき伴侶)が居る』
という反語的意味で使っているんじゃないかなと思えました。
それぞれの住む世界は違うけど、孤独ではないとそう伝えたかったのかなと
これはバトーさんの価値観での愛の成就とは違うかも知れないけれど、つまり両思いなのでは?と思えたり、いややっぱり二人は戦友愛なのか…?と思えたり想像の幅が広がりました。
匿名さん
こんにちは!補完になったとのことで嬉しいです!!
最後にかけた「あなたのそばにいるわ」は、素子は彼女なりにバトーに愛情があると伝えているのは確かだと思います。(恋愛感情かどうかは別として)
漠然とは両想いだけれど価値観が違い、素子の価値観をバトーは理解して孤独感が和らいだ と個人的には解釈してます。
あれこれ考えていたら長くなりましたすみません。
コメント励みになりました。ありがとうございます(^^)
何度観てもよく分からないってのは、押井監督は視聴者を置いてけぼりですよね。ゲーム攻略本が無いとクリア出来ないソフトみたいな。
展開の節目節目に荒巻らと
“今ここまで進展してて、次は、あそこがあやしい”みたいな展開の経過の描写があれば、
まだ流れが分かるし、アクション展開にも高揚感があったんじゃないかなぁ。
そこまで丁寧な”解説”があると、稚拙な作品になりかねないかもしれないけど、
神山版の攻殻はそういう描写は丁度良かったですね。繰り返し観れば判るようになってた。
イノセンスを何回か見てもよくわからない部分が多々あり、理解を深めたいと調べていてここのサイトに辿り着きました。
細かく丁寧に解説されていてとても理解が深まりました。
ありがとうございました!
teteさん
理解が深まったと言って頂けて嬉しいです!
私自身も文章にまとめたからこそ理解を深められた部分が多いです。
またちょこちょこ覗きに来て頂けたら嬉しいです(^^)
嬉しいコメントをありがとうございました*
「俺もお前と同じつまらねぇ人間だが、履いている靴が違う」
の会話ですが、刑務所で過ごせ、というような話ではないと思うので、私見を述べさせてもらいます。
「自分のゴーストが信じられねぇような野郎には、狂気だの精神分裂だのって結構なものもありはしねぇ」
(発狂して楽になれると思うな)
「お前の残り少ない肉体は破滅することなく、分相応な死ってやつが迎えにくるまで物理的に機能するだろうよ」
(また、お前の肉体も簡単には壊れない。だから、つまらないお前にふさわしい、つまらない死がやって来るのを、狂うことなく見つめ続けることになるだろうよ)
……と私は捉えました。自身が提唱した不完全な死に囚われているのを、皮肉っているのではないでしょうか(ここは少し蛇足ですが)
匿名さん
コメントありがとうございます!
そこの解釈について、バトーのセリフから『刑務所行きになり何十年も収監され、時間の流れとともに老いていき死を待つばかりのキム』を想像したのと、書き方が大ざっぱ過ぎたせいで言いたいことが全然書けてないな、とは思っていたものの放置していた(考えるのを後回しにしていた)箇所でして、この度ご意見頂けてようやく修正する気になりました。
ここは私も『不完全に死ぬ』ことになるキムへの皮肉と感じていたので蛇足仲間です!
匿名さんの解釈も拝見出来て嬉しいです(^^)
キムとバトーのやりとりの「人間の認識能力の〜」というところで、こうかな〜?と思うところがあったので書かせていただきます。あくまで個人的な考察です。
人間の認識能力は不完全、これは「理解なんてものは、おおむね願望に基づくもの」(荒巻)ということに起因する。人間は自己意識が強いがゆえに、物事を正しくあるがままに捉えることができない。人が認識する現実は個々の主観に歪められた現実でしかない。それゆえに人の生きる現実は常に、自己意識の歪んだレンズを通してみる不完全な現実である。不完全な現実でしか生きられない私たちは、その終焉たる死も不完全である。なぜなら完全な死は完全な生によって可能となり、完全な生は完全な現実(完全な認識能力)によってもたらされるからだ。ゆえに、現実を歪めることのない(意識を持たない)人形か、完全な認識を可能とする全知の神、この二者にしか完全な死は実現しえない。
しかし、現実を歪めるほどの強い自己意識(主観や理性?)をもたない動物も、人形や神に匹敵する完全な死を迎えることができる存在といえるだろう。
禁断の果実を食べたことで無垢を失った人間が、認識(理性?)を捨て無垢に立ち帰ることは途方もなく困難だ。それは全知の神になることよりも難しい。
長くなってしまいました。解釈の一助になれば幸いです。
楽しく何度も読ませていただいています。たくさんの引用と解説ありがとうございます。
まにょ さん
とてもわかりやすい解説をありがとうございます!!
読んでいて『なるほど、そういうことか!!』と理解・感動した上にグダグダだった箇所を修正することが出来ました(;∀;)
該当箇所に思い切りまにょさんの名前を書いておりますが、大丈夫ですかね?汗
問題等あれば訂正させて頂きますので、またお知らせください!
また、何度もお読みくださっているとのことで嬉しい限りです。。
温かいお言葉、励みになります(^^)
ありがとうございます!わざわざ修正なさった上に名前まで載せていただいて恐縮です…笑笑
よく分からないです〜と書いてあったからこそ真剣に考察することができたので、すごく楽しかったです!こちらこそありがとうございます(*^^*)
素子が最後にバトーにかけた言葉
孤独に歩む ではなくて 孤独に歩めのようです。
沢山の引用をまとめて下さってありがとうございます。
熟読しました。
匿名さん
管理人です。教えてくださりありがとうございます!
また、熟読くださったということで嬉しい限りです。
もちろん読んで欲しくて記事を書いているんですが、いざご報告いただくと恥ずかしい気持ちになりました(うまくまとめられている自信がないので・・・)
修正がてら全体を見直してちょこちょこ修正したので、またご覧になって頂ければ嬉しいです(^^)