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湊と依里がイジメを保利のせいにした理由
湊が嘘をついた理由からです。
ノベライズ版によると 単純に湊は依里と仲が良いことを早織にバレたくなくて、軽い気持ちで保利のせいにしてやり過ごしたつもりが、保利は最終的にクビになってしまったので、湊は嘘をついたことを後悔した というのが答えのようです。
でも是枝監督は「登場人物の行動理由の正解は必ずしも1つではない 観た人それぞれに見えた答えが正解のひとつである」という作風なので、私なりの解釈も書いておきます。
保利は解雇された後、湊に「僕、君に何かした?何もしてないよね?」と聞くと、湊はうなずきます。
湊は保利が何もしてくれないから嘘をついたのではないかとも私は思っています。
保利が『鎌田グループの依里イジメ』に気付かず、かといって湊は自分からいじめ問題をリークする勇気は無かったので、気付いて欲しくて嘘をついたのではと思いました。
次は依里が嘘をついた理由です。
依里が「保利先生は麦野君をイジメてる」と嘘をついたのは、恐らく保利が思込みと勘違いで「麦野が星川をイジメてる」と言い出したことに対する仕返しです。
依里は湊が好きなので、湊を悪者扱いした保利が許せなかったのでしょう。
アンケートで生徒が保利に不利な答えを出したのはなぜ?
前提として、保利は非常に周囲から誤解されやすいです。
保利は湊が暴れた時に腕がぶつかって湊が鼻血を出してしまった件や、猫の死体の件で女子生徒の肩を揺さぶったりしてしまったので、その印象で他の生徒にも保利に対して暴力的なイメージがついてしまったのでしょう。
保利のドアにかけられていた袋の中身
湊は下校中に依里が靴下だけで帰っていることに気づき、自分のスニーカーを片っぽ貸して一緒に帰りました。
恐らく依里は鎌田たちに靴を盗まれたのです。
保利が解雇されて自宅にいた時、誰かが保利の玄関のドアノブにピンク色のビニール袋をかけていて、その直後に男の子たちの声がしました。
男の子たちが何と言っていたのか聞き取れませんでしたが、この声の主は恐らく鎌田たちで、保利の部屋のドアに袋をかけたのも彼らです。
袋の中身は映りませんが、その後のシーンで保利が依里のスニーカーをかたっぽだけ履いているのが大きく映るので、恐らく鎌田たちが盗んだ依里のスニーカーを持て余して保利に押し付けたのではないでしょうか。
疑問なのは鎌田たちが保利の自宅をどうやって特定したかですが、他の先生などに聞けばすんなり教えてくれたりするものなのでしょうか?
女子生徒が湊にぞうきんを投げた理由は?
依里が鎌田グループにいじめられていた時、女子生徒が湊にぞうきんを投げます。
あれは女子生徒からの「依里を助けてやれ」という思い(励まし)が込められたぞうきんでした。
うろ覚えで申し訳ないですが、教室でボーイズラブの漫画を読んでいた女子生徒が居た気がするので、鋭い女子は湊と依里の雰囲気に気付いていたか、依里は女友達が多かった感じがするので仲良しの子には打ち明けていたのかもしれません。
猫の死体の女子生徒
同クラの女の子は猫の死体があったことを保利に教えて「麦野君がよく猫と遊んでた」と言いました。
保利は、女子生徒は「麦野湊は猫を殺したかもしれない」と言いたいのだと受け取りました。
後に保利が女の子に「麦野が猫を殺したかもって話を校長の前でしてくれないか」と頼んだとき、女の子は「私そんなこと言ってません」と答えて怖がりました。
保利は「なんで嘘つくの?」と言いますが、女の子は嘘をついたのではなく本当にそんなこと言ってないのです。
あの女の子は恐らく猫の死体に気づいてお墓を作ってもらうために保利を呼びましたが、保利と一緒に校舎裏に行くと、もう猫の死体はありませんでした。
なので女の子が保利に言いたかったのは「ここにあった猫の死体がなくなっているから、もしかしたら麦野君がどこかにお墓を作ってくれたのかもしれない」です。
このとき保利は湊がいじめの加害者ではと疑っていたので、保利のフィルターで間違って解釈してしまったのです。
殺したかもしれないと思っていたなら『遊んでた』とは言わないことは考えればわかるはずなのに、先入観で間違った解釈をしてしまったのです。
「僕もたまにそうなる」の意味は?
依里が転校すると知った時、湊は「転校するな」と詰め寄ります。
すると、依里は湊を抱きしめて顔を近づけました。
湊がとっさに依里を突き飛ばすと、依里は「僕もたまにそうなるよ」と言います。
後に2人が同性愛者だとがわかることから、この時恐らく湊は勃起していて、それに気付いた依里が「僕もたまにそうなる」と言ったと思われます。
ラスト考察:湊と依里はどうなった?
湊と依里は秘密基地の列車に乗っていて土砂崩れに襲われた後、列車から脱出して狭いトンネルを抜け、前回行った時は柵で行き止まりになっていた廃線線路の向こう側に出ます。
美しく晴れた空が広がり、湊と依里ははしゃぎながら線路沿いを走っていきます。
狭いトンネルを抜けて太陽の下に出るシーンは産道のメタファーなので、宮崎駿監督の『崖の上のポニョ』にも似たシーンがあったなと思いながら見てました。
湊と依里が生きてるのか死んでるのかで意見が分かれますが、ここで大切なのは2人の肉体の生死ではなく、湊と依里は精神的に生まれ変わったということです。
「死」は生まれ変わりの通過点です。
猫の死体の生まれ変わりと土の話題、天気の違い、柵のあるなしなど死の暗示や伏線に見えるシーンは、生まれ変わりの暗示とも言えます。
初鑑賞直後は湊と依里が死んでしまった(少なくとも生と死の間の世界にいる)ように見えたので切なくなりましたが、振り返るほどに肉体的な生死は関係ない(そこは鑑賞者の受け取り方次第)と思えるようになりました。
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感想などお気軽に(^^)
衣里がいじめを保利のせいにした理由は単に湊を守ろうとしたのではないでしょうか?
また状況的に自分のいじめが発覚する可能性があったため保利の話に逸らすという打算も考えられます。
少なくとも湊を悪く言われた復讐心が動機のメインとは考えにくいです。
保利のドアにかけられていた袋の中身は豚の脳かそれに近いものだと思います。
靴ではありませんでした。
ぞうきんを渡した女児は木田さんで、BL本を読んでいたのもこの女児でした。
また、湊と衣里が音楽準備室に行くよう仕向けたり猫の死体の話をしたのもこの子です
校長の行動には不可解な点が多かったので、考察は勉強になりました。
依里の逆文字に関して
「むぎのみなと」だけ逆文字で相合傘的な意味で、依里は器用だとされていますが、そこだけ解釈が違いました。
湊の母が依里の家を訪問した際にも鏡文字を指摘されており、国語の時間の朗読でも依里はスムーズに読めず、間違えていました。
そのため依里は学習障害を抱えている可能性が高いです。
それに付随して、依里の父が「豚の脳」「怪物」と言っている理由は同性愛に対してではなく、学習障害に対しての発言だととらえていたのですが、どう思われますか?
すごい!色々な伏線が見事に回収されてますね。私はこの考察を読んで自分の読みがなんて浅いのだろうと恥ずかしくなりました。近いうちにもう一度劇場へ足を運んで見ようと思います。
一つ、校長先生ですが
彼女はわざと写真立てを保護者に見えるように置いたり、保利を庇うのが難しくなるとあっさり切り捨てたりと薄情なイメージですが、
私は、湊と一緒に吹奏楽器を奏でる姿は、児童に誠意をもっている、本当に学校(生徒)、を守りたい人かと思うのですが、その辺はどう思われますか?
けろよん さん
こんにちは!コメントありがとうございます(_ _)
個人的な印象ですが、校長は大人同士のいざこざに疲れきっていて、身代わりになってくれた夫のためだけに残りカスしかない気力を振り絞って社会生活を送っているような、そんな人に見えました。
おっしゃる通り校長が子ども好きで生徒たちに愛情があるのは間違いないと思いますが、保利への対応、早織への態度を見ると社会復帰が早すぎたのでは?と思ってしまいます。
ご返信ありがとうございます
なるほど、校長も大切な孫を失い(しかも自分のせいで)計り知れない喪失感を抱えながら、対応がおざなりになっているのでしょうか。確かに社会復帰が早すぎたのだろうと思いました。
ただ本質は子供(児童)には、愛情を持っているのだとしたら、その辺は救われます
それにしても、私は1度見ただけでは気づかないことが多すぎで
もう一度見に行こうと思います
けろよん さん
また新たな発見や解釈があったら教えてください!
こちらこそありがとうございました(^^)
物語のラストは明るいものだと感じました。
「生まれ変わったのかな?」と言う依里に、「ないよ。もとのままだよ」と答える湊。それに対して、「そっか。良かった」と依里は笑顔を見せます。
これは、互いの愛情を確かめ合うとともに、それで良かった、“あなたを好きになれる自分”と自分自身を受け入れていると解釈しました。
鉄橋の前にはあるはずのバリケード ーー2人の望む世界を阻むものは、もうない。
この鉄橋とバリケードの描写は、それぞれが自分の中に作っていた社会に対する心の壁がなくなったことを暗示しているのではないかと思います。
男らしくない、同性を好きになる“普通ではない自分”を知られることは恐ろしい。でも、そんな自分を本当に理解してくれる存在と出会えたことで、これから2人は新しい世界に足を踏み入れることができるのだと感じました。
猫を土に埋める描写が土砂で埋まった電車の伏線だという考察は私も同意します。
しかし、単純な死の伏線ではないように思います。電車の窓から抜け出して、水路に降り、光を目指して四つん這いで進んでいく姿は、さながら今まさに産まれ出ようとしている赤ん坊のように感じられました。
このことからも、自分自身を受け入れた“新しい自分”として生きていく2人という明るいラストであると解釈します。だからこそ、生まれ変わってないし、「そっか。良かった」なのだと思います。